襟裳岬周辺の史跡

景勝地

令和6年(2024)9月16日(月・祝)えりも町襟裳岬周辺

 襟裳岬駐車場発~道道襟裳公園線を北に走る~襟裳岬市街~襟裳岬突端~襟裳岬駐車場 約5km52分

 本日の最終目的地である襟裳岬に到着する。実はこの地は、自分が住んでいる住宅から吉方の南なのである。最近、良くないことが多いので、距離は遠いが本日は南に来てみることにしたのだ。岬の駐車場に車を停めて、北の方に走る。こんなところを走っている人なんかいないだろうと思い走る。雲一つなく、日高山脈の豊似岳やアポイ岳なども見えて、風もなく絶景である。岬の東側の海岸に集落がある。こんなところに集落があるなんて初めて分かった(失礼)。
 襟裳神社があり、ここの手水鉢、石灯籠は江戸時代のものらしい。思いもかけず古い歴史に触れてラッキー。
【襟裳神社境内江戸時代建立の石碑群】
由来。これらの手水鉢、石灯籠等が奉納されたのは、江戸時代の末であり、ホロイズミ(えりも町)は、昆布の主要な産地として蝦夷地の中でも特に重要な場所(交易場所)の一つ幌泉場所であった。この時代、蝦夷地の各場所は場所請負人が漁場等を管理運営し、本州との間に北前船による交易を行っていた。当時の場所請負人福嶋屋が奉納したものであり、当時の漁業振興・交易等を記録する貴重な文化財である。升屋は北前船の船主。

 神社の近くに石碑が建っていた。難しい文字が刻まれているが、えりも町のホームページにあったので転載させていただく。
【震嘯罹災記念】
 昭和8年建立。表面に「震嘯罹災記念 北海道廰長官正四位勲三等佐上信一著」と刻まれている。由来は、次のとおり。「昭和8年3月3日未明、三陸沖で発生した地震による津波が幌泉村を襲い、えりも岬地区、庶野地区を中心に大きな被害が生じた。津波は地震発生後30分間の間隔をおいて3回来襲し、3回目には、その波高は14.2mにも達し、死者13名、負傷者56名、家・建物の倒壊90棟など総額34万円(現在だと約20億円)の被害があった。この碑は被害の生じた町村へ分配された義援金の残額を使って建立され、地震の恐ろしさを後世に伝えている。なお、庶野地区の碑は倒壊の恐れがあったため平成9年に整備された。」

 この後、岬の突端に向かう。海岸線に近いところに豊國丸殉難碑があった。
【豊国丸殉難者追悼碑」
 表面には、「海軍中将正四位勲二等功五級四竃考輔書」と刻まれているが、裏面はよくわからなかった。ホームページから転載。「昭和4年(1929)4月22日、午前6時函館港を出港した函館市長長谷川藤三郎所有、柿野紹介扱い汽船「豊国丸(ほうこくまる)」(2,343トン、高井甚三船長以下33名)が、函館市西浜町28番地株式会社八木本店の漁夫176人を乗せて、カムチャッカ東海岸アナッターチャーへ向け航行中、襟裳岬にて暗礁に乗り上げ座礁、遭難、沈没。22日午後8時50分札幌放送局にてSOSを受信、放送を中断して報道した。78名が死亡、その追悼碑。平成3年に倒壊したが、台座を新しく再建した。」

 また、岬の突端には「襟裳神社旧鎮座詞跡」碑があり、参拝する。その他は、観光地となっているが、灯台や展望台などを散策し、十勝方面に向かう。

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