令和6年(2024)10月12日(土) 3km 35分 石狩市厚田区
最後に、戸田生家がある高台を訪問する。戸田生家の説明板や様々な石碑が鎮座していた。戸田家生家内部は綺麗に復元され、戸田先生の写真も掲げられていた。戸田先生はすごいどぎつい眼鏡をかけていたようだ。
【戸田生家】
復元された昔の家の前に、石碑の説明板があった。「創価学会を築いた二代会長戸田城聖は明治33年2月11日に生まれ3才のとき一家は石川県から渡道厳しく雄大な厚田の自然にいだけれて成長し大正3年厚田尋常高等小学校を首席で卒業した。「男子志を立て郷関を出づ。功なくして志ならずしていかにして厚田の水をのむべきや」と手記に遺し向学心に燃えて雄飛の決意を固めて上京する。鰊の波にわきたつなかで多感な時をすごした証である。このたび厚田川の改修にあたり漁家特有の造りに十分配意しながら移転復元した。家具類などについては多くの人々の協力を得てゆかりの品々を収集したものである。貧しくも銀に映えた生家である。昭和53年10月10日 厚田村」
【厚田村百年】碑
表面には上記のとおり刻まれ、裏面には次のとおり刻まれていた。「あつた の名が世に知られるようになったのは寛文元年(1661年)松前御国絵図ができ元禄13年(1700)松前郷とともに江戸の幕府に献上されてからである。元禄の末期、増毛場所から分割されて厚田場所となった。安政3年(1856年)積丹の神威岬以北女人の渡航が解禁になってから、和人が初めて一戸をかまえ越年した。明治2年(1869年)北海道開拓使の扱いとなって、コタンに厚田郡出張所がおかれた。権少主典が赴任したのは、翌3年2月であった。その後、村役制、戸長制、二級町村制を経、明治40年4月1日一級町村制が施行されて、今日に至っている。その間、ここに百年、汲んでも尽きない愛と富の泉として拓いてくれたこの郷 先人の限り無い功績を讃え、感謝のまことを捧げる。そして次の百年に一歩をふみ出す決意を新たにする。昭和43年(1968年)秋 厚田村」
【子母澤寛の碑】
自然石の中の黒い御影石に「子母澤寛 箱館戦争の敗残者、江戸の侍が蝦夷石狩の厚田の村にひっそりと暮らしていた。「厚田日記」から」と刻まれ、その横の説明板位には次のとおり刻まれていた。「歴史小説家子母澤寛(本名梅谷松太郎)明治25年厚田村に生る 親子の縁うすく生後間もなく祖父母の懐に育つ 明治40年厚田小学校を卒業中学大学と苦学をつづける 卒業後新聞記者の世界に入り幕末明治維新時代に興味を抱く 昭和3年「新選組始末記」に初めて子母澤寛の筆名を使う 代表作に「勝海舟」「父子鷹」「花の雨」「国定忠治」などがある ふるさと厚田を背景に祖父十次郎に愛情をこめて描いた「蝦夷物語」「厚田日誌」「南へ向いた丘」は子母澤文学の源泉ともいうべき作品群である 昭和37年第10回菊地寛文学賞を受賞 昭和43年7月19日神奈川県鵠沼の自宅にて永眠 享年77歳 今年は七回忌に当り文化の日に記念碑を建立して永くその功績を顕彰する 昭和49年11月3日 子母澤寛文学碑建立期成会 題字 子母澤寛直筆を拡大したもの(以下略)」
【平和への誓い】
表面には次のとおり刻まれていた。「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない。池田大作著「小説新・人間革命」から抜粋」。裏面には次のとおり刻まれていた。「由来 石狩市「特別功績者」である戸田城聖先生と池田大作先生が1954年8月16日厚田海岸にて世界平和を誓願しその実現のため1960年10月2日池田先生が世界平和への旅を開始して本年50年を迎えました。厚田を擁する石狩市は1994年「核兵器廃絶平和都市」を宣言しました 戸田先生も東西冷戦の家中「原水爆禁止宣言」をされ核兵器の絶対悪を訴えられましたこの精神を世界に宣揚し具体的に行動してきたのが池田先生です これは石狩市の核兵器は以前宣平和都市宣言と深く共鳴しあうものです 厚田から世界へ「平和の風」を送るべくここに「平和への誓」の碑を建立しました。2010年10月2日(以下略)」
その後、厚田公園展望台「恋人の聖地」86mに登頂した。ここは登山にカウントしよう。
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