令和6年(2024)10月14日(月祝)11.6km 1時間38分 栗山町道の駅~(国道234号線)~角田地区~(くりやまハーフマラソンコース)~共和地区~道の駅
昨日、くりやまハーフマラソンを走ったばかりであるが、マラソンを走っている時に石碑を見つけたので、そこを再訪するとともに、以前訪問した角田地区を再度取材しようと考えた。
道の駅に車を停めて国道234号線を走る。足腰に疲労が残っているが体が温まると、体が動いてきた。道路沿いに量販店などの大型ショップが増えているような気がする。角田集落に近づくとN-GRITSの工場ができていた。
角田集落に到着し、まずは栗山町郷土資料館と泉記念館を訪問する。ここは別途レポートさせていただく。訪問後、国道に戻ると、説明板が二つあった。
【泉鱗太郎入植地跡】
(内容は別途報告するので省略)
【角田郵便局跡】
明治23年、手紙を取り次ぐ郵便局が泉宅前に設けられ、明治35年に通常郵便、為替、貯金を扱う拡大郵便局がここに設置された。
【角田簡易教授場跡】
郵便局裏手には泉鱗太郎らが開拓者の協力を得て、明治23年12坪の掘立小屋を建て、簡易教授場を開き本町学校教育の創始となった。
次に角田コミュニティのところにも史跡があった。
【角田村道路元標】
大正8年に勅令第460号で公布された道路法施行令では、市町村単位での道路の起点・終点および町村の位置を示す指標として、道路元標の設置が義務付けられた。角田村道路元標は、国の同勅令・施行令や、北海道庁告示第220号、内務省令第22号などに設置が明記されている。また、旧角田村役場の所在に建てられたものであり、各市町村間の里程を示す指標である。
【角田村戸長役場跡】
明治23年に角田村が設村され、役場は「由仁外三ヶ村戸長役場」に併設されていた。同33年に角田村戸長役場として独立し、翌34年ここに新庁舎が開設された。角田村は昭和24年に栗山町と改称。同38年に庁舎は現在地に移転された。
【角田神社】由緒
明治21年アノロ原野を永住の楽土と定めた先人によって開拓の鍬が下ろされ明治23年には角田村を公称するまでになった。明治24年角田市街から1kmほど離れた夕張街道筋に社殿拝殿ともに約六坪の木造の小祠を建てた。明治34年に無格社として創立。(略)明治42年神社付近も開田が進んだことから、高木兼寛男爵と福井正之の土地寄進により現在地に移転(略)。
【和重地愛】栗山町共和地区
石碑の表面には上記のとおり刻まれ、「桂芳弘書」と添えられている。その脇に小さな石碑に「共和」と刻まれていた。その下に碑文があり、次のような内容が刻まれていた。「碑文 明治27年開村間もない角田村13戸へ福井正之氏が農場経営のため移住。同年7戸の農場地へ髙沼久蔵・新栄宅次郎氏ら7名が入植。これが我が部落の幕開けとなる。昭和10年角田村の字名改正が行われ7戸・13戸が一つの部落として誕生。互いに和を尊び大地に生きる喜びを感じるため共和と名付けた。我々の先人は極寒の北海道開拓を志し第二の故郷を求めて粒々辛苦、冷水害に耐えて今日の美田の礎を築いた。昭和30年代に入り川端ダムが完成。大型機械の開発に伴い第二の開拓と言われた総合土地改良事業が進められた。我が地も栗山町の先端を切って、団体営・道営圃場整備事業を実施し用排水・区画整理・暗渠・農地集団化がなされ、構造改善事業によって近代農業の基盤が完成した。我々は今一面の荒野を鍬鎌の開墾時代から土地改良事業の推進した幾多の先人の労苦を偲び、感謝の誠を捧げると共に一致団結協和の発展を期して茲に記念碑を建立する。平成5年11月7日 共和開基百年記念事業実行委員会」
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