黎明(下巻)

日本書

令和6年(2025)10月18日

葦原瑞穂著

☆自分とはなんでしょうか
なぜ意識というものが在るのでしょう
どうしてあなたは今ここにいるのでしょうか
人生には目的があるのでしょうか
私たちの生活しているこの世界の本質は一体何なのでしょうか
世界は何のために存在しているのでしょうか

これらの人類にとっての永遠のテーマに真正面から取り組みます。この目的のために様々な専門分野の多くの知識の中から、それぞれ単独ではほとんど意味を成さないでいたり、その背景を理解することが難しかったテーマを、分野を超えて関連することから始めて、その背後に浮かび上がってくる人間の意識と宇宙の驚くべき仕組みを探っていきます
。 また、精神世界の様々な分野について、人間の知覚が世界をどのように認識しているかという基本的な問題から始めて、物質世界の科学的な探求が現在辿り着いている究極なところ、インドのヨガやヒマラヤの聖者たちの到達している世界、日本神道や仏教、ヒンズー教やキリスト教といった宗教の側面からの考察、そしてニューエイジと呼ばれる比較的新しいアプローチや、地球外生命に関する情報をも含めた、全体の関係を一望できる視点に立つための幾つかのヒントも書かれています。

構想2年、執筆13年余り、さらに二度目となる増補改訂を経て遂に完成!
地球変容の時期に向けて放たれた一条の真理の光となるべく書!

私の探しているものですか
それは形の有るものではありません
形のあるものは それの本来の姿ではないのだから
それは名前の有るものでもありません
名前の有るものは 本当は そこにはないのだから
真理と愛と叡智と
これらの言葉が 世の初めに発した響
これらの言葉が 内に携えている光
これらの言葉が 源に在る力
限りなく美しく この上なく崇高な海のように
激しい嵐の中にも
荒れ狂う高波の下にも
静かにそれは拡がっていて
宇宙の一切を包み込んでいるのに
ひとつの原子の中にも その総べてが在る
久遠の昔 そこから私はやって来て
永遠の時を掛けて 私はそこへ還って往く
それが 私の求めているものです
(本文より)

私達のひとりひとりがこれまで主に使っていた肉体感覚や感情の意識レヴェル、そして論理的な思考の意識レヴェルを超えた、宇宙全体を一度に把握する意識のことを、本書では『普遍意識』と呼ぶことにします。
この普遍意識は、これまでの数千年間の地球の歴史に限ってみても、人類の進化の魁と成った様々な人達を通して顕れてはいたのですが、周囲のほとんどの人達は、それを自分達の制約された意識状態に映して判断することしかできなかったために、普遍意識について理解することは勿論のこと、その存在についてさえ、なかなか知られることはありませんでした。
普遍意識は、様々な分野で先駆的な仕事をした天才たちの意識であり、宗教家の言う悟りの体験でもあります。

宗教という言葉は多くの場合、定義の曖昧な漠然としたニュアンスで用いられていますが、世の中のほとんどの人達が宗教を観念として捉えており、しかもそれぞれの宗教の内部にいる人達(信者)が、こうした観念を真理と錯覚している現状では、この言葉が本来の意味である「宗(もと)の教(おし)え」として使われることは、まず期待できなくなっています。従って「宗教」という言葉は、普通は人工的な教義(ドグマ)に対して用いられると考えてよいでしょう。
しかしながら実際には、どのような宗教団体であれ、それに所属している人達は、自分達の教えこそが真理であると主張して、誰ひとりとして、自分達の教えもまた人工的な教義のひとつに過ぎないという事実を認めようとしないものです。
これまでに繰り返し説明してきましたように、どのような教えであっても、それが人に伝えるために言葉や文章に置き換えられ、人間の思考によって把握された時点で、ひとつの制約された観念に変質しており、無限の叡智で在り、自在の表現を採る真理とは懸け離れたものになっているという事実を、まず理解しておいて頂きたいと思います。
宗教間で争いが起きたり、同一の創始者の流れを汲むものでも、異なる宗派の間での対立があったり、更には同じ団体に所属していながら、個人個人によって見解の相違が生じたりするのは、これらの人々が自己の内側において唯一の生命を体験したこと(普遍意識の自覚)がないために、他人から聞いた神についての様々な考えや、それぞれの心の中で造り出した神についての勝手な解釈を真理と錯覚し、自分の考えと相容れないものを排斥するようになるからです。〈中略〉

宗教団体に集まってくる人達は、神を求めようとする意識の段階には達しているものの、制約された観念でもって神を人格として捉えようとしたり、また自分の外側に神を探そうとするために、普遍意識の自覚に至ることはまだ難しく、こうした状況の中で、組織の運営上の都合や指導者の理解力の不足、更には一部の人達の利己的な意図のために、教義が造られたり、先駆者の言葉に誤った解釈が為されたりすることも多く、こうした過ちのために混乱させられたり、不必要な遠回りをされたりする人達が出てきます。
このような場合、教団の指導者や間違った伝道に関わった人達は、自分が惑わした人の数だけカルマを造ることになりますから(カルマはデジタル的な値ではなく、エネルギーの総量として生じます)何百万人もの信者がいるような組織で間違いを教えた人の場合には、真理を求めながら騙され続ける悲惨な人生を、気の遠くなるような時間にわたって、何万転生も続けて行かなければならないことさえあります。
もしも指導者が「確信犯」で、自分の教えている教義が正しいと心の底から信じていたような場合には、意図的に騙したわけではありませんから、そのことで本人の霊的な進歩が遅れることはありませんが、間違いを教えたというカルマは同様に生じますから、できる限り今生のうちに間違いに気付いて、自分が影響を与えた人達にきちんと訂正しておくことが最善の対応になります。
気付くのが遅れたり、訂正をきちんとやっておかなかったりすると、間違いが人から人へと伝わってどんどん拡がって行きますし、特に今回のように、地球の表現領域の移行に伴って、地球上に表現を行っている魂達の次の転生が様々な恒星系に分散するようになると、その人達ひとりひとりを追い掛けてカルマの刈り取りを行うことは、大変面倒なものになってしまうからです。〈中略〉

既成の宗教の大半は、それぞれの教義に従うことによって、病気が治るとか、商売が繁盛するとか、希望の大学に受かるといったような現世利益か、肉体を離れた後に地獄に落ちるのを免れる、もしくは天国に入れるという類の契約、そしてこの世(地球)が滅びる際に救われるという、三つのパターンのいずれか、もしくは全部に関わっています。
それではまず現世利益について考えてみることにしましょう。勿論、病気の人が健康になりたいという思いや、貧乏に苦しむ人が経済的に豊かになりたいという願いは切実なものですから、それらを決して馬鹿にしてはなりませんが、こうした不調和な現象は、その人の表現が自然の法則に反した結果として生じているものですから、真の原因を取り除くか、また過去のカルマならば潔く受け取って、そのエネルギーが消滅するのを待つことで、結果として日常生活も調和してくるという対応が基本であり、不調和な結果だけがなくなれば良いというのは、余りにも虫の良過ぎる考えであることを理解して頂きたいと思います。〈中略〉

次に天国に入れるという契約ですが、これは天国(極楽、高天原その他様々な名称で呼ばれます)という言葉が、一体どのような認識の上で使われているのかということによって、コメントする状況が異なってきます。
著者の鳩居にも時折布教に訪れる、お馴染みの宗教団体の人達に、彼ら、彼女らが頻繁に口にする「天国」とは一体何なのかという質問をしてみても、実際に逝って見てきた人は一人もいませんから、指導者から聞いた話や聖典の単なる受け売りに過ぎなかったり、自分の想像で観念的に言葉を使っているだけで、言っている本人も「天国」については何も理解していないということが判ります。
肉体を離れた後に生活することになる精神階層は、その人のその時点で到達している意識を反映したものになりますから、心がある程度浄化されている人の場合なら、憎しみや敵対心などの否定的な波動が少なくなっていることと併せて、美しいものや崇高なるものへの感受性が鋭敏になっていれば、その魂の表現する高次媒体の持つ波動に因って、外側に現象化されるその人の住む世界も、当然それに見合った調和の取れたものとなります。
また地上生活の間に行った善いことのカルマが、肉体を離れた後の幽界での生活中に返ってくるというのはよくあることですから、このような住み心地の良い幽界を仮に天国と呼ぶのであれば、地上での生活を糺していけば天国に入れるという考えも、あながち根拠がないわけではありません。
精神階層では、本人の思い描いた想念が直ぐに外界となって現象化しますから、キリスト教徒であれば、聖書に書かれた「新しきエルサレム」に、光り輝くイエスと、彼を取り巻く天使達のいる世界を造り出すかも知れませんし、仏教徒であるなら、蓮華の花の咲き誇る中に座す、釈迦の神々しい姿を目の当りに見るかも知れません。また、地上的な願望の延長線上に関心のある人であれば、妙なる調べの流れる黄金の宮殿に、美男や美女を侍らせ、豪華な料理や美酒を味わいながら過ごすという生活もあるかもしれません。
このように精神階層では、それぞれの人が「天国とは斯くあるべき」と思っている観念を自分で現象化して、思い思いの幸福感に浸ることができますが、これらの世界は全て、その人の心が描き出した幻想であり、自己満足に過ぎないものです。
これと同様に、心の中で造られた否定的な要素、例えば憎しみや怒り、嫉妬や恐怖心といった「愛の欠如した状態」を手放さないまま精神階層に入ると、これらの否定的な波動がその人の住む世界をそのように現象化することになります。
「誕生と死」の章でも触れましたように、この状態を「地獄」と呼んでいるわけですが、これらの「天国」「地獄」のいずれであっても、またそれらの間に位置する様々な意識の状態であっても、その中で生活している住民は、自分の体験している出来事が自分の心で造り出している幻影(マーヤ)であるという真相には気付いていませんから、それらの世界も彼ら、彼女らにとっては、当面の現実世界ということになってしまうわけです。しかしながらこのような幽界は、どんなに住み心地が良かったにしてもその人の心が造り出した幻の世界に過ぎないもので、本来の天国とはこれらの迷妄を超越したところに在る意識の状態なのです。〈中略〉

宗教の御利益に関する三番目のテーマとして、地球、もしくはこの世が滅びる際に、その宗教をやっていれば救われるというものがあります。まず地球が滅びるという考えは、その実態を理解していない人達の思い描いた幻想なのであって、人間が肉体を離れても幽体によって生き続けるように、地球も物質レヴェルでの生命の表現が終れば、次の表現の場に波動的に移行するだけで、個人であれ、一惑星であれ、あるいは宇宙全体であれ、変化するのは媒体のみであり、総てのものの実相で在る永遠の生命には、決して終りというものは存在していません。
それでは現象として起こるのは何かというと、個人にも地球にも、自然法則に法った表現領域の変化が必要なときに起きるのであって、「それぞれの人が現在表現している意識の状態が、そのまま未来の生活の場を選ぶ」という法則に基づいて、様々な出来事が展開するに過ぎません。
具体的に言うなら、恐怖心を抱えている人には恐怖に満ちた世界が、憎しみを手放そうとしない人には憎悪に苦しむ世界が、利己的に振る舞う人には利己的な人達の集まる世界が、そして愛と調和と喜びとを表現している人には未来の地球が、それぞれの注文に応じた表現の場として用意されるわけです。またこれ以外にも比較的少数ではあるのですが、他の恒星系に移ったり、解脱して実在界に還る魂達もいます。
ここで特定の教義を信じていることや、特定の団体に所属していること等は、将来のより善い生活の場の選択には何ら影響を与えるものではなく、ただ今在る心の状態のみが、その人の魂の行先を決定します。(同一の教義を信じている人達の場合には、共通のヴァイブレーションを多く持っていますから、肉体を離れた後に共通の幽界に集まることが多く、そのため一層迷妄を深めてしまうことがあります)。従って今の今、自分が光である在るかどうか、全世界の人々や地球上の生命の全個的表現、そして宇宙全体に対してどれだけ多くの愛を表現しているか、そして自分がいかに否定的な想念を手放し、様々な固定観念の制約から自由に成っているかということが重要になるのです。〈宗教より抜粋〉

【目次】
第十六章 善と悪
第十七章 地球の先住民
第十八章 光と影の識別
第十九章 音楽
第二十章 地場調整
第二十一章 ピラミッド
第二十二章 日常の生活
第二十三章 霊的向上の方法と瞑想
第二十四章 教育
第二十五章 宗教
第二十六章 占星学
第二十七章 新しい時代の地球
終章
詩。

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