ビート史料館

廃線・廃駅

令和6年(2024)12月1日(日) 帯広市稲田町~(国道236号線)~川西東~公園東通り~ビート史料館 5.6km 52分  所在場所 帯広市稲田町南8線西14番地

 本日のランニングの後半はビート史料館を訪問する。300円の入館料は安い。しかし大企業の資料館だけあって、立派で展示物もよかった。ビートは砂糖の消費減で苦境に立たされており、個人的には糖質制限を実施しているので、複雑な気持ちで参観した。しかし、テンサイは畑作の輪作上不可欠であり、今後は、砂糖ではなく飼料や燃料としての使用が望まれる考える。
 敷地に入ると、線路跡があり「工場前」という駅名板があった。トラックが普及する前は、鉄道で運んでいたのだ。十勝管内には十勝鉄道と河西鉄道があり、前者は帯広から上美生、八千代、太平、戸蔦まで、後者は清水から熊牛、鹿追、上幌内まで鉄道が伸びていたようだ。
 そして、「行幸記念碑」があった。思いもかけず石碑を発見してラッキー。裏面は漢字とカナであるが、史料館内に「かな」の記述内容があったので、こっちの方がわかりやすいので転載する。

【行幸記念碑】
 表面には上記のとおり大きく刻まれ、「前侍従長 海軍大将 男爵 鈴木貫太郎謹書」と添えられていた。裏面の記載は次のとおり。「昭和11年10月 大元帥陛下将に石狩平野における陸軍大演習を統監あらせられんとするや其9月29日を以て当社帯広工場に親臨あらせられ精糖作業を叡覧し給う実に千載一遇の盛事にして当社の光栄之に加ふるものなし 回顧すれば本道に於ける甜菜糖業は明治13年の創始に係るも業務久しく振るわず一時中絶の悲境に陥りたるも其後甜菜は本道農業経営の改善及び確立に必須なる重要作物なること明らかなるに至り大正8年初めて当社の設立を見尋て帯広工場の建設成り爾来十有九星霜以て今日の盛況をいたし聊か国家経済に裨補する所あらんとす当社職員たるも宏遠なる 叡慮を拜體し深厚なる聖恩に感激し夙夜黽勉強以て報效を期せさるべからず因りて茲に碑を樹て顛末を敍して永く恩光に浴すと伝爾 昭和12年9月 北海道精糖株式会社社長」

 史料館の玄関を入ると胸像があった。相馬氏は明治製菓の創業者だった。

【相馬半治翁】胸像
 胸像の下に金属で次のとおり刻まれていた。「相馬半治翁の経歴 相馬半治氏(明治2年~昭和21年)は、尾張犬山藩の士族として生まれ、苦学の末、東京工業大学の前身東京工業学校を明治29年卒業し、直ちに助教授に就任しました。明治32年文部省より糖業事情研究のため欧米へ3年間の留学を命ぜられ、帰国後、同大学の教授に任命されました。明治37年台湾総督府により糖務に関する事務嘱託を命ぜられ、総督府糖務課長に就任しました。明治39年同地に明治製糖を創立、専務取締役として参画し、大正4年には社長に昇任しました。一方、同氏は北海道における甜菜糖業にも多大な関心を持ち、大正9年創立の清水工場を有する日本甜菜製糖を買収し、大正12年には明治製糖に合併させ、甜菜糖事業に進出を果たし、昭和11年には士別工場を建設しました。昭和19年に、帯広・磯分内工場を有する北海道精糖と、明治製糖の甜菜糖部門を切り離し併合の上、北海道興農工業とし、これを昭和22年日本甜菜製糖に商号変更して、現在に至っております。従いまして、同氏は戦前の北海道甜菜糖業の大立者として活躍し、十勝開墾及び河西鉄道の設立にも関与し、寒冷地農業の基礎を築いた実業家であります。本胸像は、昭和4年同氏の還暦記念として、北村西望氏により制作されました。平成24年9月吉日明糖倉庫(株)より譲り受け、これを記すものとします。平成24年9月19日 日本甜菜製糖株式会社 取締役社長 小笠原昭男」

 史料館内には、甜菜の生産から鉄道による輸送、工場内での製造過程の歴史がビジュアルに、わかりやすく展示されていた。館長らしきおじいさんが、大きな声で他の来館者に説明していた。ここはもっと早く訪問すべきだった。

 外には、大きな蒸気機関と発電機が展示されており、説明板によると大正9年に米国産の同機を輸入して、昭和35年まで使われ、平成元年に当館の会館にあわせてこの場所に移されたそうだ。

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