久島重義彰徳碑

石碑・銅像・胸像(歴史上の人物)

令和7年(2025)1月吉日 北海道中川郡池田町清見ヶ丘公園内 

 清見ケ丘公園内に石碑があり、その前に池田高校の生徒が設置した説明板があった。碑文自体は難しいので、説明板に書かれていた現代語訳を転載する。

【久島重義彰徳碑】
 久島重義氏の徳をたたえて 同氏は万延元年(1860)二月十六日江戸に生まれた。天性の利発さに加えて、志も高く、札幌農学校に入学した。卒業後は根室県御用掛を経て北海道庁に勤務した。その後退官し、十勝地方の池田農場の経営に従事し、大きく貢献した。久島君は頭脳明晰でアイデアも豊富だった。物事を計画し、実行することは全て優れており、行うべきタイミングも時機に適したものだった。このような能力を持っていたため、町や村に関わる多くの仕事も小さなことから大きなものまで対応した。久島君が池田町農会長として在職したは三十五年、多大なる功績を残した。その他、様々な公職においても善行や見事なまでの働きぶりによるすばらしい実績は枚挙に暇がない。思うに池田町が今日のように繁栄することができたのは久島君の力によるものである。人柄は穏やかで、人情に厚かったため、関わった人は皆、彼を尊び敬い、人々は厚い信頼を寄せていた。ああ、なんと久島君の功徳は偉大なのものだろう。だからこそ、大正四年と昭和三年に天皇即位の盛儀がなされた際に、地方功労者として天皇から記念品を賜るという光栄をこうむった。大正七年には、北海道農会長からこれまでの功績を表彰された。これは久島一族だけの栄誉ではなく、まことに郷土の人々の誇りである。久島君は昭和九年七月十四日病でこの世を去った。享年七十五歳であった。翌年郷土の人々は彼の功徳を追慕し、碑を建てて不朽のものとした。久島君の偉業は時を経るにつれ、ますますその光を増し、名声は碑と共に永久に伝わり、永く後世の人々が手本として尊ぶことになるだろう。正三位勲一等 農学博士 南鷹次郎

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