パークゴルフ発祥の地・頌徳碑(幕別町開拓功労者)

発祥の地

令和7年(2025)2月吉日 幕別町新町駐車場~(国道38号線)~十勝中央家畜市場・畜魂碑~相川小学校跡(万城目正生家)~蝦夷文化考古館~線路沿いの道を戻る~金比羅神社~駐車場 15.8km 2時間18分

 幕別町途別川の河川敷にパークゴルフ発祥の地碑があった。

【パークゴルフ場発祥の地】中川郡幕別町錦町
 1本のクラブと1個のボールでプレーできる手軽さに、ゴルフ気分も加えた「パークゴルフ」は、公園にコースをつくるという逆転の発想で1983年に始まりました。クラブとボールは、1919年にこのまちで操業を始めた株式会社ニッタクスが合板業界屈指の技術で開発してきました。アイデアも、用具も、すべてメイド・イン「まくべつ」です。公園では、「カラン」というカップインの小気味よい音とともに、今日も明るい笑顔がいっぱいです。緑の芝生と太陽の下で遊ぶパークゴルフ場は、世代を超えてだれもがいっしょに楽しめるコミュニティ・スポーツとして全国へ広がっています。これからも人々の出会いのかけ橋として地球のあちこちに広がることが心からの願いです。

 今日のランニングの最後は幕別神社にある頌徳碑だ。背面には膨大な量の碑文が刻まれていた。カタカナをひらがなにしてレポートする。

【頌徳碑(幕別町開拓功労者)】中川郡幕別町本町145-2
 表面には頌徳碑と刻まれ、裏面には次のとおり刻まれていた。

 幕別町開拓功労者
 武山土平 天保5年4月宮城県黒川郡糟川村に生れ幼名を勘左衛門と称し世々伊達家の久新であった 明治維新に際し家禄を奉還し農民になり土平と改名した 親友十勝にあって氏を招き氏は喜んでこれに応じた 明治21年11月13日大津港に上陸利別村フンベ山麓に仮小屋を建てて農業に従事したるのである 翌22年12月15日の洪水に逢ひ前途望少なき察し 翌明治23年3月今の止若に移り家屋を建築し開墾に従事した處野火に見舞われ一物も余すことなく困苦艱難筆舌に盡せず 然れども揮も居することなく黙々として開墾に従事し傍ら土地探検者の為に自ら利別村に通ずる十勝川に渡船場を設けて諸人の往復に便を与えた 同31年十勝一国の水害あり白人村イカンベツ村辺は一面浸水し家屋を流され住民再び水害に遭ふを恐れて皆其の難を避んため地に土地を選び移らうとしている時恰よし氏の?に付与された土地の中央を貫通して帯広よりい釧路への道路なったので大いに罹災者に同乗して一戸分を宛を区画して無償譲渡した衆人大いに喜び日ならずして五十余の家屋立ち商売軒を並べ一の市街をなした住民其の徳を頌し姓をとって武山市街と呼ぶ而して自己も亦数十町歩を耕作し茲に積年の素志の一半を達したのであった同33年病に罹り12月東京に出て仙台宮城病院に入り治療しその甲斐なく翌34年6月8日終に逝去 行年68 辞世に「肉皮は浮世住居の力さりものくすしたのために骨を止めん

 國安仁七郎 天保12年徳島県三好郡三庄村大字中庄に生る 氏は早くより年々人口増加するのに新に耕する土地なく幾多の細民活路に苦しむを憂ひてその為北海道開拓事業を思ひ立ち有志相謀り南海社を組織し明治24年来道して土地を選定し本町の未開地面積は広大にして移民のいくらでも包容し得るを知り貸付願書を提出し翌25年4月14戸一団を組織し副団長大塚松蔵をして先発移住させた翌26年24戸翌翌年27年54戸を移し氏は毎年一回宛来村して内地本社との連絡を保った 此の如くすること8年その間の事務所費その他移住奨励往復の旅費等は自弁したことは勿論移住者の為種子なども十勝川の舟便により用意された事又は青年子供集めて学文教26年27年豆類を函館へ持行売り当時の感謝の的であった 当時十勝国地方は文通の便開けず官専ら土地の調査中あったので明治25年以来土地貸下停止中であった併るに氏の熟誠は遂に当局の官を動かし今日の基礎をなしたのである 而して団体移住者中或は中途に挫折して他に転ずる者あったといえども殆ど23を数えるに過なかったのは市の指導の宜しきを得た結果である又進んで本村に土地を持たなかったのは移住者の誤解を招くを恐れてであるといはれている耕作の種子を石狩で購入し海路大津港に運び

 大塚松蔵 氏は安政3年9月徳島県三好郡三庄村に生る 家は世世稲田氏の臣であり夙に北海道移住の志を持っていた 明治25年4月同志國安安七郎と南海社を組織し國安氏団体長となり氏は副団長となって14戸の家族を率い同年15日郷里を出発し海路30余に知を費し釧路港に上陸し或は人跡がなくいばらをかり露宿水行一行の困難名状すべからず然るに1名の落伍者も出さなかった 5月21日予定地に就き老幼相扶けて小屋掛けをして青年子供を集めて学文を教え着々開墾に従事し秩序ある発展を為すに至った 明治39年4月本村に二級町村制を実施せられたときあげられて部長とな爾来精克く其の任務を盡したる功績特に顕著なりとして大正7年7月18日村長より三組銀杯を贈与し之を表彰せられる

 田井素 岡山県阿賀哲田両郡34戸を以て団体を組織し名称を吉備団体とした 氏は団体長として団員と共に十勝国白人村に移住開拓の指導に従事した であった規約などを設け意志の弱き者を説きよく団員の世話をやき現在の岡山団体即ち相川の素地を形作った
 昭和30年9月 建立

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