創世記第1章

01創世記

 エドガーケイシーの聖書の解釈。

 数霊術のテキストは聖書だという。ノアの箱舟で40日、イエスの誘惑は40日。ノアの息子は3人、アダムとイブの息子も3人。セム・ハム・ヤペテ。3が出始めたら、ボディ・マインド・スピリットと当たりをつける。光・闇は心の構造。

 初めに神は天地を創造された。地は混沌としていた。混沌の上を神が動いていた。ケイシーは、神の霊が動くときに、混沌から平安と調和をもたらす。重要な前置として、モーセ五書は誰が書いたのか。一般的にはモーセが書いたと言われているが、ケイシーは、モーセがもたらし、ヨシュアが書き留めた。目的は、神が人々を救うという計画がどのようなものかを人間の側から理解できるようにした。聖書には、歴史とか事実が書かれているわけではなく、目的として人間とはいかなる存在であるのか。人間と人間を生み出した存在が、どのような関係があるのか。そのように向かうべきか書いてある。そのようにしないと聖書を読む価値がない。

 神の霊が動くときに、平和と調和がもたらされるが、我々の人生においてもそうである。我々の人生が混沌としたとしても、人生の中に神をもたらそうとすれば、または神性を発揮しようとすれば、必然的に平和と調和が生まれる。

 場合によって慎重に読む必要がある。例えば天地を創造。その後、地をつくりとあるが、そこの言葉の違いを理解する。次に創造がでてくるのは、神が人間を造った。ここにきて創造が出てくるのはなぜか。ヘブライ語にさかのぼると、「バラ―」は丹念に作る。それ以外は「アサ―」は普通につくる。神は天地と人間を念入りに造られた。創世記筆者のインスピレーションが入っている。それまでは光がなかった。この光は何か。ケイシーは、この光は我々自身だと言っている。光は我々の意識。意識があると自分を自覚。「言う」というのは、ヘブライ語でダバールで思ったことを実現化する意味。この章が皆である。ケイシー的に言うと、毎日創世記をやっている。We have a dairy genesis. どういう風にやっているか。寝ている間、意識は混沌としている。カオス。意識が目覚める瞬間に光がある。

 神は光と闇を分けた。神の恩寵によって自分の意識を自覚できる意識と自覚できない意識に分けた。聖書では日没が基準。聖書が人類に希望を見出させようとしている。暗いとことから明るいところ、夕方という暗いところから、朝になる。

 そして、水を空と地に分けた。乾いたところと水のある所。陸と海を分けた。陸には草を生やし、種のできる草や種の入った果樹を植えた。種を持つという言い方はあちこちで出てくる。この意味を理解するためには、永いストーリーを我慢しなければならない。ケイシーは、人類は霊的存在として意識を受けたと言っている。

大きな意識の海のようなものがあり、自分一人でいることがもったいないと考え、この素晴らしい存在を分かち合う仲間を欲しいと思った。神は意識の中から、自分の似姿をかたどって、人間を造った。それは人間だけである。我々は潜在的に神と同じ意識を持ちうる存在だということ。大きな意識という水に氷ができるような状態。氷は様々なところに結晶のようにできる。自由意思を持つという意味で属性が発揮される。 自分の能力にワクワクする。ケイシーの宇宙創造のイラストは、我々は宇宙の中におたまじゃくしのようなものができて、核ができた。1節で物質的な宇宙が造られたとき、神は、人類はそのままでは進歩も向上もなく、経験の場が必要だと知っておられた。可能性を開花させるためには経験が必要である。経験の場を提供するために天地を創造された。銀河系、太陽系、惑星ができ始めるのを霊的な世界から我々は眺めていた。我々地球の数百億の魂は太陽系に方向を向いていた。そして地球を見ていたら生命現象が生まれてきた。物質が進化するように仕組まれていた。

 最初は面白いなと見ていたが、外から見ていただけでは面白くなく、現場に出てみようと思い始めた。最初は1億3千万人位の魂が降りてきた。物質世界を味わった。そして植物が出始めた。動物が出てきた。動物は興味深かった。もっとも興味をひかれたのは動物の性行為だった。神は性行為はいいかもしれないと思った。当時は神の属性を持っていたので想念で自分の欲する動物を創造した。ケイシーは想念体と言っていた。最初は入ったり出たりができた。しかしケイシーの言葉では、エンタングル、出てこれなくなった。

人間と神の能力の差は、種を持って増えるものを造れるかどうか。種という言葉が何回も出てくる。体験した順番、鉱物、水、植物、動物に入って行って抜けきらなくなった。それが創世記の第1章第1節。私たちのストーリーである。最終的に人間を造った。

 第27節:神が自身の形として創造された。男と女に彼らを創造された。第28節、神は彼らを祝福された。生めよ、増えよ、地に満ちよ。地を従えよ。解釈はたくさん小作りをせよというのではない。この1文に長いストーリーをが込められている。魂が肉体に入り昏睡状態になる。最初は脳味噌が少なく、意識を持てなかったので、当時一番進化していた類人猿を持ってきて進化を加速させた。ケイシーは5大陸同時で実験が始まった。脳味噌をたくさん入れるために甲状腺とかを刺激して直立させた。尻尾を落とした。体毛を落とした。脳を飛躍的に増大。人類の進化にはミッシングリンクがある。脳味噌が400㏄が1800㏄に増えた。それで初めて人らしくなった。自分を認識し、向上させようという意識が生まれた。生めよ、増えよというのはそのような意味である。本当の訳は、「自分の霊性を高めよ、高めよ」である。地を従えよというのは、「獣性を克服せよ」という意味。ケイシーは、「subdue the influence of materiality物質性の影響を克服せよ」と言っている。全然違う意味である。自分の中の霊性を高めて、物質性を克服せよという意味である。 「海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ」支配せよではなく、ケイシーの言い方では、自分を克服した人には、全てが付き従うという意味。西洋人は自然を支配しようとしているが、そうではない。

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