岐阜県「武儀団体」入植地

石碑等(開拓記念碑)

令和7年(2025)3月8日(土)音更町大通6丁目~武儀団体入植地(東音更)~音更町寺子屋教育発祥の地~音更町コタン(柳町17丁目)21.4km 3時間12分

 快晴に誘われ、音更町でまだ訪問していない史跡を訪問することにする。車を図書館分館の駐車場に停めさせていただき、国道241号線を北上する。気温はマイナス5度くらいで、日光が当たっているが、微妙に向かい風で手が冷たい。音更町南中士幌で左折し、しばらく走り左折すると武儀団体入植地の石碑があった。

【武儀開拓百年之碑】
 表面には上記のとおり刻まれ、「田中泰定謹書」と添えられている。裏面には次のとおり碑文がはめ込まれていた。「碑文 季節は流れて 先人の苦難とたゆまぬ努力により 輝ける沃野 果てしない豊穣の理想郷として 生成発展を成してきた 今ここに開拓百星霜を迎えるに当たり 当時を偲び その偉業を讃え 功績を永く後世に伝えると共に この地に住む勝縁を喜び 互いに和合して 更に限りない飛躍を誓い この碑を建立する 平成九年四月吉日 武儀開拓百年記念事業協賛会」

【温故知新 武儀開拓八十周年記念協賛会】
 表面には上記のとおり刻まれ、その下に功績者の名前が刻まれている。裏面には碑文が次のとおり刻まれていた。「碑文 この地 明治三十年五月岐阜県武儀郡より 新天地開拓の雄志を抱き 同志二十六名 中田宮五郎氏を団長 西部喜代吉 平田徳市氏を副団長として入植鍬を下す 不抜の柏林大樹密生 鮭多く 鹿の路 薄日にあり爾来風雪八十年 茅屋今何処 地味豊かに 自然清く 営々として生を楽しみ今を誇れる理想郷となる この栄光の礎を受継ぎ輝く 未来の創造に向って躍進することを誓い 開拓の礎石となられた 先人の尊い偉業を偲び その功績を顕彰鑚仰し 永く後世につたえんがためとの碑を建立する 昭和五十二年 四月十五日 記念事業協賛会 立

【武儀團隊移住紀念碑】
 細長い石に上記のとおり刻まれていた。裏面は読み取れなかった。

【岐阜県「武儀団体」入植地】標柱・説明板
 明治三十年(1897)四月八日、岐阜県武儀郡中有知村は肥沃な土地でしたが、大水害、集中豪雨、加えて濃尾地震(明治24年)の惨状下にあり、団長、中田宮五郎は二班に分かれて、オベリベリ、そして中士幌に入地し、五年間で27戸が中士幌0号から9号までの区間に入地しました。彼はオベリベリ滞在中、団員の不満を説得し、未開地の困難な開拓に団結して、取り組むことを訴えました。また、堀勝十郎は明治31年(1898)、自宅で児童7名による「寺子屋式教授場」を開きました(音更で初めての学校)。その後、説教所・神社を設置、青年たちの文化活動等が盛んに行われていました。音更町教育委員会平成25年10月。

 入植地から南にしばらく走ると、音更町寺子屋教育発祥の地に到着した。

【音更町寺子屋教育発祥の地】説明板
 小学校から大学までの学制が明治5年にしかれ、教科書が明治19年に国定とされる中、明治30年、岐阜県から「武儀団体」が中士幌原野に入植しましたが、子弟の教育の機会、設備が無く親たちの悩みでした。
 明治31年、幹線12番地堀勝十郎が児童7名を自宅に集めて「寺子屋式教授場」をつくりました。これが音更の子弟教育の始まりです。以後、各農場や団体移民・然別・下士幌等地区ごとに「簡易教育所」「特別教育所」「特別教授所」等が設置されていきました。音更町教育委員会 平成25年10月」

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