弟子の足を洗うイエス様、仕える人になる

43ヨハネの福音書
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令和7年(2025)3月8日(土) ホープ札幌教会 斎藤牧師説教

 先週洗礼を受けた人、キリスト教を信じるまでは何か変だと考えていた。人は生まれてから、神の形をした空洞がある。それを埋めるのは、神しかいない。神との関係性を断って生きてきた中で、気がついたのだろう。
神に仕えて、そして教会に仕える。

ヨハネの福音書第13章
4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。
7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいのではない」と言われたのである。
12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのは正しいことです。その通りなのですから。
14 主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた互いに足を洗い合わなければなりません。
15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、あなたがたに模範を示したのです。

 最後の晩餐の時のイエス様の言葉。次の日には十字架に掛けられるのがわかっているのに、弟子を心配している。足を洗うというのは当時、奴隷の仕事。私たちの汚い心を洗ってくださる。
 ペテロは直感的な人で、私の足を洗わないで下さいと言った。それは神様に命令することなので越権。やめてください神様ということ。
それでイエス様は「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」と言った。足を洗うということ。毎日毎日我々は罪を犯す。いらだちや怒り、嫉妬などの罪。

ヨハネの手紙第一1章
8もし、自分に罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
9 もし、私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
10 もし、罪を犯していないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。

 私たちは悔い改めて、イエス様を信じるが、毎日罪を犯している。犯していないと言うなら欺いている。罪を犯しても反省しないこと、悔い改めないことがだめ。ダビデは大きな罪を犯したが、すぐに悔い改めた。神に対して悔い改める。清めてくれるのはイエス様。面白いのは、ユダの足も洗っており、最後までイエス様はチャンスを与えている。

 イエスの意図は、師が弟子の足を洗ったのだから、お互いに洗いなさい、愛し合いなさいということ。最後に見本を示した。イエスがヨハネからパブテスマを受けたのもそう。

マタイの福音書第20章
26 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
27 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。

コロサイ人への手紙1 1章
25 私は、神から委ねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。

 人に仕えると同時に、教会に仕える。それは神様、キリスト、聖霊に仕える。お互いに仕え合える人になること。ミッションホープ。15年間人に仕えることをやってきたが花開いてきた。神様の技だということがよくわかった。隣人愛の活動を神様が喜んでいる。

ピリピ人への手紙第2章

6 キリストは神の御姿であられるのに、神としてののあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
8 自分を引くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、膝をかがめ、
11 すべての口が、「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。

 イエス様が全ての模範。そのイエス様に仕えるのが喜び。自己中心的な喜び一時的なことで永続的でない。三位一体の神が我々に住まわれているので、人に仕えて、神様に与えられたことを喜んで、感謝して行うのは人生の醍醐味。

 富は一つの偶像である。神に仕えることで神が喜ばれ、神の栄光が現れるのを人生の目的とする。人生の指針、目的があり、永遠に神様と暮らせることができる。人生とは今のテスト期間。

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