令和7年(2025)5月22日(木)東京都台東区松が谷2丁目14番1号
東京出張の朝ランは、上野から浅草まで走ることにした。道程は、宿からひたすら真っすぐ東に向かうのでわかりやすい。浅草に到着する手前、矢先稲荷神社のところで、絵図と標題の説明板があった。
【浅草、寺社景跡三十三間堂絵図】
寛永19年(1642)「弓師備後」「上野寛永寺天海僧正」の発企、武術奨励を願う三代将軍「家光公」の命により、浅草三十三間堂は創建されました。同じく鎮守社「矢先稲荷神社」が建立され377年の崇敬を集めています。明暦大火(明暦3年・1657)後、「火除地」に設定された当地域に寺院が建て始め、新堀川が開削された寛文11年(1671)「浅草三十三間堂」を中心とする長閑な時代を「田中辰斎絵師」が描いています。南北120m丹碧の大伽藍で行われる一昼夜の「通し矢」は、江戸名所として一世を風靡した華やかな時代でした。残念なことに元禄11年(1698)「勅額火事」と呼ばれる大火で焼失しました。存続すれば松葉町の様相も違ったものであったと思われます。令和元年9月吉日 矢先稲荷神社
【浅草三十三間堂跡】説明板
「文政町方書上」によると、寛政19年(1642)11月23日、弓師備後が浅草において、幕府から6247坪8合の土地を拝領し、三十三間堂を創建した。位置はこの付近一帯と推定される。堂創建に際し、備後は矢場(弓の稽古場)を持つ京都三十三間堂にならい、堂の西縁を矢場として、その北方に的場を設けた。ここでの稽古は京都の例にならって、堂の長さを射通す「通矢」の数を競った。元禄11年(1698)9月6日、世に「勅額火事」と呼ぶ江戸大火が起こり、三十三間堂も焼失。跡地は公収された。同年14年に替地を給され、三十三間堂は深川に移転して再建。以後、両者を区別するため、浅草・深川の地名を冠して通例になった。矢先稲荷神社は的場に隣接していたのにちなみ「矢先」の名が付されたという。平成7年3月 台東区教育委員会





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