近藤勇の墓・早乙女貢の墓等

古墳・ストーンサークル・墓所

令和7年(2025)7月5日(土) 会津若松駅~鶴ヶ城~松平家墓所~飯森山(白虎隊自刃の地) 約10㎞

 松平家墓所を後にして少し北のところの天寧寺に近藤勇の墓があるので訪問してみる。墓所はお寺からさらに山を登ったところであり、やたらと熊注意の看板がある。なんと、近藤勇の墓の隣は土方歳三の慰霊碑だった。

【近藤勇の墓】
 ネットより転載。上坂仙吉 (会津小鉄) が、京都三条河原に晒された近藤勇の首を夜陰にまぎれ奪い取り、子分に命じて会津に持ち込ませた。仙吉自身も、籠城戦の最中、鳥羽伏見での戦死者遺品を届けている。
 その他にも、
  ◇ 土方歳三が、近藤の首を埋葬して建墓した。
  ◇ 斬首を聞いた土方が、斉藤一に命じて首を奪って持ち帰った。
  ◇ 土方が持参していた遺髪を埋葬した (平石弁蔵)。
などの諸説あるが、かつては配下とはいえ藩士でもない武人の遺髪を納めただけで、松平容保が破格の供養墓を建立(許可?)するであろうか。戒名まで贈っており、首と共に会津へ持参したと伝わる刀「阿州吉川六郎源祐芳」も現存している。「下僕首を盗み生前の愛刀になりし此の刀を持ちて会津に走り密かに葬る」「松平容保公 天寧寺山ノ上に閏四月二十五日ニ建立 法名ハ貫天院殿純忠誠義大居士ト云フ」藩士は東京組と越後/高田藩に別けられ謹慎、そして斗南へ挙藩流刑。この墓も例外ではなく、しばし人々の記憶から消え去った。昭和30年代に入って、キノコ狩りの中学生らによって、草木に埋もれていた墓石が偶然に発見され、近藤勇の墓と確認された。西軍に見つかれば確実に壊されるのを防ぐために、「隠された」ともいわれている。「貫天院殿純忠誠義大居士 慶応四戊辰四月二十五日卒俗称近藤勇藤原昌宜」

 辞世の句
孤軍援絶作俘囚 (孤立し、援軍も絶え、囚われの身となる)
顧念君恩涙更流 (君主の恩を顧みて、涙が更に流れる)
一片丹衷能殉節 (真からの忠誠心、義のためなら命を捨てられる)
雎陽千古是吾儔 (雎陽での張巡は、永遠の同志である)
靡他今日復何言 (敵方に、今更何も言うことは無い)
取義捨生吾所尊 (大義のためなら、命を捨てることは望むところだ)
快受電光三尺剣 (首を刎ねる長剣を、快く受けよう)
只将一死報君恩 (一死をもって、君主の恩に報いたい)

 帰りにお寺の境内を進むと、早乙女貢先生関係の石碑「会津士魂」やお墓である。早乙女先生は、ライフワークであった全13巻の大作「會津士魂」と続編「続會津士魂 (全8巻)」を執筆した。

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