令和7年(2025)8月30日(土)札幌市北区16条西9丁目
北大の森の中に自然石でできた「寄宿舎跡の碑」があった。歴史の足跡さんによると、碑石は日高産の輝緑凝灰岩で、碑面には「恵迪吉従逆凶惟影響」と刻まれているそうだ。黒御影の石板がはめ込まれていて、そこには寄宿舎が建てられた経緯が次のように刻まれている。
【寄宿舎跡ノ碑】
明治九年札幌農学校開校ニ当リ北一条西二丁目ニ寄宿舎開設セラル 校舎ノ移転ニ伴ヒ寄宿舎モマタ明治三十八年春北十一条西七丁目ニ新築移転ス 明治四十年舎名ヲ惠迪寮ト定メ農学校ノ大学ヘノ改組ヲ迎フ 昭和六年末コノ地ニ再移転シ昭和五十八年新寮舎ノ開設ニヨリテ開寮解体セラル コノ間櫛風沐雨ノ星霜百有余年幾多有為ノ人材ヲ育ミタリ 時ハ変改スルモ寮生ノ友情ト哀歓ト古往今来相ヒ同シ 内ニ本学創業ノ意ヲ秘メ外ニ校風仲張ノ枢ト為リ平生飛動ノ意ナキ能ハス 発シテハ寮歌トナリ明治四十年以来作リ継クコト七十余年 林間ニ寮歌ノ歌声絶ユルコトナク中ニ就キテ都ソ弥生ハ本学ノ代表歌トシテ全国ニ知ラル 碑前西ニ彫リシハ舎名ノ出自タル書経ノ句ニシテ農学校一期生本学初代学長佐藤昌介ノ書蹟ナリ 昭和五十八年九月之ヲ建ツ 教授 水野一 撰 学長 有江幹男 書」
由来に書かれているように、碑面の漢文は書経の一節から採られており、「迪(みち)ニ恵(したが)フトキハヨシ 逆(さかしまなる)ニ従フトキハ凶(わろ)シ コレ影響(かげひびき)ノゴトシ」という読み下しになるそうです。揮毫したのは初代学長を務めた佐藤昌介氏で、琢堂は佐藤氏の雅号になるそうだ。



上記碑からもう少し工学部寄りに、都ぞ弥生歌碑があった。
【都ぞ弥生歌碑】
碑面には金属板がはめ込まれ、そこには「横山芳介作詞 赤木顕次作曲 明治四十五年惠迪寮歌 都ぞ弥生の 雲紫に 花の香漂ふ宴遊(うたげ)の筵(むしろ) 盡きせぬ奢りに濃き紅や その春暮れては移らふ色の 夢こそ一時青きしげみに 燃えなん我可胸想ひを載せて 星影さやかに光れる北を 人の世の清き國ぞとあこがれぬ」と記されている。これは「都ぞ弥生」の一番の歌詞で、作詞した横山芳介氏の書になるそうだ。
碑の右側面には小さめの金属板がはめ込まれていて、そこには「昭和32年9月24日 歌碑建設期成会により建立 平成19年9月22日 恵迪寮同窓会により改修 横山芳介 書」と記されている。
碑の脇には説明板が立てられていて、そこには「恵迪寮歌「都ぞ弥生」歌碑 明治38年(1905年)に建てられた札幌農学校の寄宿舎は、2年後「恵迪寮」と命名された。毎年、寮生により、寮歌が作られており、「都ぞ弥生」は同45年(1912年)の寮歌である。恵迪寮は、昭和6年(1931年)に現「都ぞ弥生」歌碑の北側周辺に移転され、その後も数多くの学生を育て送り出してきたが、新しい寮の建設により昭和58年(1983年)に取り壊された。「都ぞ弥生」は今日なお学生たちに歌い継がれている。」と記されている。




【記念碑 楡影寮】
寮関係の最後の碑は、「楡影(ゆえい)寮記念碑」で、碑面に「記念碑 楡影寮」と刻まれている。その下には「ここに僕らの棲み家があった ここで学んだ 語った 歌った そして時が流れた 楡影の青春を偲んで オバンケルの息子たち」と刻まれた黒御影の石板がはめ込まれている。
「オバンケル」とは、ドイツ語の「Onkel(おじさん)」と「おばさん」を合わせた造語で、当時の学生寮の賄いを務めたおばさんを、学生たちは親しみを込めてそう呼んだそうだ。
碑の左側面にも、黒御影の石板がはめ込まれていて、そこには「略年譜 1946年 私設寮としし江別に開寮、1950年 北海道大学の施設となる、1955年 この地に新寮を建設し移転、 1983年 新学寮建設に伴い統合のため閉寮、2003年9月 北海道大学楡影寮碑建立委員会」と刻まれていた。



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