音更山道碑・糠平国道碑

基盤整備記念碑

令和7年(2025)10月18日(土) 

 十勝管内から三国峠に向かう途中、いつも糠平温泉の手前に石碑があるので立ち寄ってみた。

【音更山道碑】北海道河東郡上士幌町町字黒石平75
 碑文「音更山道 山麓ヨリ山腹二至ル道程四里 大正七年六月十勝監獄ハ王子製紙株式会社 音更山道請負人 関直右衛門之請ヲ容レ 看守長坪井菊之助二看守七名ヲ附シ囚徒役延人員六千ヲ督シ同年九月竣功ス 工費五千円ハ委託者ノ負担タリ 十勝監獄は明治廿八年創メテ帯広二設置シ道ヲ修メ地ヲ拓キ十勝圀開拓の先駆と為す 音更山道伐木ノ業モ亦監獄二依テ創業セラル 当時ノ山道崎嶇紆余(糸余)其困難名状スヘカラサルモノアリ今ヤ工成ル 帝二事業者ノ利便ノミナラス地方開拓二資スル事幾何ソヤ即チ之ヲ紀念トスト云璽 大正七年九月一日」

「音更山道
国道糠平街道は明治25年釧路監獄の囚人の斧によって誕生する。囚人はユウンナイ(糠平湖底)の大樹海を伐採し十勝開拓の建設資材にあてたのである。当時の道といえば奇岩と断崖続く激流の縁に刈り分け道しかなく、囚人たちは背に食糧と作業具をかついで前進し冬は寒さをついて伐木にあたり、夏は音更川の水運を利用して中越波場(音更町木野市街)まで流送するのであった。
大正7年十勝監獄はユウンナイまでの約16キロの道路開削工事にあたるのである。糠平街道は当時「音更山道」と呼ばれ、延6千人の囚人を酷使し3ヶ月の月日を費やして完成したのである。完成記念碑の碑文は看守長が書き、だれが彫ったのか、なかなかの達筆である。かれらが去ってから糠平温泉は発展した。糠平ダムの出現によって音更山道の一部は水没、また碑の足もとを流れる音更川も当時としては比較にならぬ”小川”となり見る影もない。だが、かれらも見上げたであろう見事な屏風岩だけは風雪にさらされながらそびえたっている。帯剣と銃の警備のもとに、黙々と汗を流したかれらの音更山道はいま脈々と生きている。

 音更山道碑から少し糠平温泉沿いに走ると糠平国道碑があった。

【糠平国道碑】北海道河東郡上士幌町町字黒石平
 「糠平国道」と記され、その下に「北海道開発局長 小西郁夫書」と添えられている。碑文は次のとおり記されていた。「断崖絶壁、原始林に覆われ、人跡未踏の地であったここに道と呼べるものが造られたのは、明治二十五年官有林の森林開発のため人がやっと歩ける道を十勝監獄の囚人の汗によって造られたのが嚆矢である。その後十勝と上川を結ぶ開発道路として、昭和36年改良工事に着手、昭和47年、三国トンネルの完成により三国峠越えの道路が開通し、大きく変貌を遂げた。しかし、未だ幅員も狭まく砂利道であったため、昭和45年清水谷糠平温泉間の改良工事に着手し、13年の年月と多大な労苦のものに本日ここに糠平国道の開通を見たことは地域域住民にとり喜びこの上もない。この国道が大雪山国立公園を縦貫し、道東と道北を繋ぐ大動脈として北海道が更に発展する礎となることを祈念し、併せて国道建設に御尽力された各位に深甚なる感謝の意をこめ記念碑を建立する。昭和五十七年十月 糠平国道整備促進期成会」
 裏面には関係業者がびっちりと刻まれていた。


 

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