発祥の地公園など

発祥の地

令和7年(2025)11月30日(日)約4㎞(約50分)

 河川敷から市街地の方に戻ると、発祥の地公園があった。思いもかけず、史跡に触れることができる。

【発祥の地公園由来等】(概要)
 旧帯広川の高台にはかつてアイヌのコタンがあった。寛政12年(1800)、勇払に移住した八王子仙人同心の皆川周太夫は、日高山脈を越える道路調査のため、十勝川河口のオホツナイ(現在の大津)から十勝川をさかのぼって調査を行い、この付近に上陸。また安政五年(1858)には、松浦武四郎が蝦夷地の調査を行い、この地を訪ねて記録を残している。これらの調査によって、十勝内陸部が農耕に適していることが明らかになった。
 明治16年(1883)5月、依田勉三や鈴木銃太郎、渡辺勝を中心とした晩成社13戸27人がこの付近に入植。民間の入植の先駆けであり、人々は苦労を重ねながらも開拓を進めた。このため、この付近は発祥の地と呼ばれている。

【皆川周太夫上陸の地】帯広市東10条南4丁目
 寛政11(1799)年、東蝦夷地(北海道太平洋側)が幕府により直轄されることになりました。翌年には、同地の警備と開拓のために武蔵国から八王子千人同心が勇払・白糠へ派遣され、その中心人物の一人である原新介は、配下の皆川周太夫に蝦夷地内陸部の調査を命じました。
 寛政12(1800)年、命を受けた皆川周太夫は、十勝川を舟でさかのぼり日高山脈を越えて沙流川や勇払・支笏・虻田方面へ調査を行い、道路を作る計画を立てました。
 周太夫が残した調査の報告書には、この付近の地名であるバラトブトで上陸し宿泊したことが記されています(報告書には「ハラトブト」と書かれています)。この周太夫の調査が、和人による帯広への上陸の記録として最も古いものと考えられる。

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