令和7年(2025)12月29日(月) 北海道札幌市中央区南14条西10丁目
山鼻公園の中で、最後にレポートさせていただくのは、「山鼻兵村開設碑」である。「歴史の足跡札幌の碑」さんから転載させていただく。
【山鼻兵村開設碑】
正面の大きな石碑の正面には上記のとおり刻まれ、両サイドに「山鼻記念塔」と「開設者氏名」の碑が設置されている。
真ん中の開設碑の背面には次のとおり刻まれていた。「山鼻村距札幌西南里許癸柯山峙焉豊平川繞焉明治七年官定屯田兵制九年五月移青森秋田鶴岡宮城岩手五縣士民二百四十戸〇〇編〇二中隊属第一大隊十年鹿児島役轉戦守人吉一瀬川高鍋間其功戴在史〇来復詳此而種藝〇桑之業亦逐年而興得良田七百三十町可謂兵農両金天今茲甲午之〇村民胥謀欲建紀念碑以傳不朽乃叙兵村創置之梗概刻之碑隂 明治二十七年九月三〇日」
AIによる現代語訳は次のとおりである。「明治7年、政府が屯田兵制度を定め、明治9年5月には青森・秋田・鶴岡・宮城・岩手の五県から士族・平民あわせて240戸が移住してきた。〇〇を編成し、第1大隊の第〇2中隊に属した。
明治10年の西南戦争(鹿児島の役)では、人吉・一瀬川・高鍋の各地で転戦し、その功績は史書に明らかである。 その後帰村してからは、農耕や養蚕などの産業も年々盛んになり、良田730町を得るに至った。まさに兵と農の両立が天の恵みのように実を結んだと言える。
今年(明治27年・甲午の年)、村民一同は、この歴史を後世に伝えるため記念碑を建てようと相談し、ここに兵村創設のあらましを記し、碑の裏面に刻むものである。 明治27年9月30日」
碑の前面に説明板が置かれていて、次のとおり記されていた。「碑歴 明治七年屯田制度が制定されこの山鼻地区に山鼻兵村を設置することが決定した。明治九年五月兵屋の建築が竣工すると同時に東北地区の諸藩士を主体とした二百四十戸の兵士・家族千百十四人が移住一大村落が形成された。以来北方領土警備の責務と、生活を共にする家族を含めうっ蒼とした原始林と多くの野獣の遠吠えが聞える当時の山鼻地区を開発する厳しい任務を背負う苦難が始まりこれが山鼻開発の原点であった。明治二十七年九月山鼻兵村開設から二十年を経過したのを記念して屯田の有志が私財を投じこの地にこの碑を設置した。碑の題字は当時の屯田兵司令官陸軍中将永山武四郎です。毎年五月に移住の日を偲ぶ趣旨の下、山鼻小学校児童を含め祝典が挙行された。その後大正元年九月二十七日山鼻記念碑保存資産が移住し今日に至る祖先への感謝と業績を後世に伝える目的をもって財団法人として申請承認された。爾来この山鼻兵村開設碑は山鼻屯田の誇りとシンボルとして維持管理を財団が担っている。財団法人 山鼻記念碑保存資産」







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