令和8年(2026)1月24日(土)音更町下士幌北2線東41
夜の飲み会に備え、音更町内で未踏の史跡を訪問する音更町木野市街から、東の方に向かい走り、5㎞ほどで本照寺に到着する。ここには音更町発祥の地があり以前にレポートしたが、その隣に標題の顕彰碑があったのだ。
【大川宇八郎顕彰碑】
表面には「翁は安政2年岩手県に生を享け、商人として明治10年渡道、同12年 オトフケプト モッケナシ 今の宝来富丘附近に到りアイヌ人と交易を始め、翌13年意を決し サッテキオトフケ 今の相生附近に入地、十勝内陸定住の祖となった。以後来住する人々を抉け、自らも農牧畜を営み、相次ぐ冷水害、病害虫にも挫けず堅い決意と不屈の信念を貫き、十勝開発の先駆者として功を収めたが、特に馬産改良に遺した功績は大きく開拓者の範と広く讃えられ、昭和12年当下士幌において、その尊い生涯をとじた。こゝに翁の足跡を辿り、碑を建てゝ永くその偉徳を顕彰する。昭和35年9月10日」。
裏面に「大川宇八郎顕彰碑建立期成会」とあり会長1名、副会長2名、役員13名、事務局6名の名前が刻まれている。道北の釣りと旅さんのサイトによると、次のような情報があったので転載させていただく。「碑には記載されていないが明治16年に河川の鮭魚が禁止され明治17年の4月頃にはアイヌ民族が餓死寸前に陥いり、晩成社の依田勉三や鈴木藤太郎らとともに緊急に食料を調達し配ると共に、札幌に出向き早急な措置を求めている。晩成社の日誌4月20日付けにも記録が残されていた。」








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