令和8年(2026)3月2日(月)富良野市弥生町1番 富良野市役所前庭
最後に市役所を訪問する。以前はあった古い市民会館が無くなっていた。以前訪問した時にあった巨大な石碑をレポートすることとする。市役所のホームページによると、1952年(昭和27)、下富良野村の開村50周年を記念して当時若松町4番にあった富良野町役場前に建立。碑には50年のあゆみが記されている。1968年(昭和43)、富良野市役所新庁舎建設とともに、現在地へ移設されたものだそうだ。
【開発記念碑】「〇」は読み取れない文字
東岳西嶺山容鮮かに清流〇〇〇水〇美なる〇〇〇三十万平方餘〇良圃美田相連り商舗工舎軒を並ぶ之農都富良野の景観たり然れ共之れ一日にして成るに非ず春風秋雨茲に五十有余年往時を回顧せば感慨眞に深し明治二十九年初めて殖民地として指定空知支庁歌志内戸長役場に属せし頃は熊羆咆哮する大密林と丈余の葦鬱蒼たる〇〇地に過ぎず之に開拓の聖鍬を下せしは三十年五月筑後組合農場中村千幹氏外二家族にしてその苦闘名状すべからざるものあり三十一年札幌農学校第八農場看守所設置及び旭川に至る車馬道開通三十二年東京大学演習林派出所設置殊に旭川上富良野間鉄道開通を見るに至り俄然活況を呈し市街地成り上川支庁管下移り上富良野に戸長役場設置富良野村を〇し三十三年下富良野駅開設により急激に進展し三十六年九月一日分村独立下富良野戸長役場を置く之れ實に本町の創始にして戸数八百六を算す爾後大正二年滝川線開通に至るに我国経済発展の機運に乗じ木材搬出畑作中心より水田造成に転換米作高潮時代正に至らんとするに当たり二年全道的大凶作に際会し離散者続出大に憂慮されしも漸く安定に帰し四年四月二級町村に進む偶々世界第一次大戦に遭遇するや雑穀暴騰し異常の好景況を来し八年町制施行富良野町と改称す之より先き未だ残存せる茫々たる原始的泪侞地の開発を志し兜谷徳平翁の超人的努力により六年土功組合を起こし約五か年の歳月を費し灌漑溝を完成し遂に四千町歩を拓き得たのは実に画期的偉業と讃えるを得ずかくて十年四月一級町村に進み各般の施設漸く整ひ平和郷完成の途上昭和六年満州事変起り物情騒然十二年支に支那事変に襲ぎ十六年十二月八日太平洋戦争勃発し二十年七月十五日三回の空襲を受け凄絶悲愴の内に八月十四日終戦となり国民皆虚脱混迷す為めに諸般更生の要に迫られ二十一年自作農創設特別措置法実施する元来当地開拓の初めより北海道大学其他多数の大農場は全農耕地を占有し開発上多大の功績ありしと雖も小作開墾の弊亦〇からず本法施行にあたり幾多の波頭曲折を経二十五年一月全部の開放を見農民の自主的基礎を確立するを得たり之に先立ち二十三年元旦を以て都市計画区域の指定を受け往年の鬱蒼密林を含め名実ともに富良野の沃野と化し戸数三千七百人口二万一千名を擁し文化農都たる面目漸く躍如たらんとするに至る時正に開町五十年に当たり往時を追懐し先人の偉業を景仰し更に創を新にせんが為め茲に建碑以て本庁永続の発展を期するに所以なり 昭和二十七年九月 日本学士会員 北海道大学名誉教授 三位勲一等農学博士 伊藤誠哉 顕額並撰文 阿部章治書丹
裏面には「昭和二十七年九月建立」と刻まれ、歴代首長の氏名が刻まれていた。





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