札幌玉葱関連の史跡

産業遺産

令和6年(2024)1月4日(木)

 札幌村資料館内(北海道札幌市東区北13条東16丁目)に札幌玉葱関係の碑や説明板があった。

【札幌玉葱記念碑】
 黒御影の石板に「わが國の 玉葱栽培 この地に はじまる 髙木圭助書」と刻まれ、その下の赤い石の石板には「日本の玉葱は明治四年(一八七一)開拓使が米国から種子を輸入し札幌官園で試作した後、多くの苦心が重ねられ、元村で栽培が定着した。明治十三年中村磯吉が一町歩余を栽培して良品を収穫し、みずから東京に送って販売を試みたが失敗した。しかし、同十六年に武井惣蔵が道外への販売に成功したことによって、本格的に玉葱が生産されるようになった。明治三十年代には、札幌村にはじまった玉葱が次第に近村に広がり、また耕作者による選抜改良も年々すすみ、優良な品種〝札幌黄〟が育成され、篠路村、白石村を合わせた一大産地となり、札幌特産として全国に出荷されるばかりでなく、広く海外にも輸出されて、その名声が一段と高まった。その後、時によって盛衰もあったが、この地区は現在まで一世紀余、玉葱一筋の農業が続いている。これまで多くの苦難に耐えて日本最古の玉葱産地を築き、栽培に努力した先人に感謝をささげるとともに、札幌黄玉葱の名を後世に残すため、栽培発祥にゆかりの深いこの地をえらび記念碑を建てる。昭和五十三年十一月二日 札幌玉葱記念碑建立期成会」と刻まれていた。

【ウイリアム ペン ブルックス博士 札幌黄生みの親 1851~1938】
 札幌黄を導入したブルックス博士の功績が説明されていた。概要としては、明治10年にブルックス博士が札幌農学校に着任、恩師クラーク博士が創設した農園を引き継ぎ、以後12年間学生に指導。札幌村に玉葱栽培を導入。肥沃な沖積土で排水も良く玉ねぎ適地と判断。選んだ品種は「イエロー・グローブ・ダンバース Yellow Globe Danvers」であり、これはマサチューセッツ州のダンバースに住むバクストン兄弟が数年かけて「コモン・イエロー」種を品質、多収、貯蔵性の高い品種に改良。1845年にダンバースの港から152隻の船舶が玉ねぎを積荷して出航。明治15年、ブルックスは札幌農学校第一期卒業生佐藤昌介を助手に、札幌村での玉葱の栽培、自家採取の指導に力をいれた。明治39年北海道農事試験場は、この品種を「札幌黄」とし発表。札幌をこよなく愛し、農業の発展を願ったブルックス博士は、村の農具を木製の小さなレプリカにして持ち帰った。

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