平成25年(2013)11月4日(月) 11:30頃出発 留寿都村市街地 約30分程度
札幌からせたな町に帰る際に、いつも通る留寿都村の市街地を走りました。天候に恵まれ、素晴らしい景色でした。留寿都村も史跡に溢れている。
【浪越徳治郎先生胸像・説明板】
学校法人浪越学園理事長、日本指圧専門学校校長、浪越徳治郎先生は、明治38年11月、香川県仲多度郡多度津町に生まれた。明治44年10月、徳治郎7歳の時、一家とともに北海道胆振國留寿都村に開拓移民として移住した。温かい南国と北海道との気候の変化と、悪路での移動がこたえたらしく母まさは、留寿都村に辿り着いた翌日から、膝の痛みを訴えだした。病状は日増しに悪化して、痛みは膝から足首、手首、肘から肩へ広がった。今の病名では「多発性関節リューマチ」という難病である。その間後に当たるうちに指圧のヒントを得て、東京で4年間の修行を積み、遂に浪越式指圧療法を創案した。大正14年0月に北海道室蘭市に指圧治療院を開業、その後札幌市に浸出し、昭和8年3月、「指圧を天下に広めよう」と大望を抱き北海道から上京し、昭和15年2月に東京都文京区小石川伝通院前に祝右岸の日本指圧学院を設立し、幾多の子弟を養成し浪越式指圧は今や世界の指圧に発展した。(略)平成9年11月
【留寿都村開村記念碑】
留寿都村の開拓は、明治4年に東久世長官の命により、3戸がいじゅうしたきたことによりはじまる。その後明治30年7月に虻田村より分離。この場所に真狩村戸長役場が建てられた。当時の真狩村は、現在の留寿都村、真狩村、ニセコ町、喜茂別町を含む広大な地域であり、その中において留寿都村は行政の中心的役割を担った。そして明治34年に狩太村(現ニセコ町)、大正6年に喜茂別町(現喜茂別町)、大正11年に真狩別村(現真狩村)をそれぞれ分村した後、大正14年に村名をアイヌ語の「ル・スツ(道がやまのふもとにあるという意味)から、留寿都村と改称し現在に至る。厳しい風雪に耐え、幾多の苦難に対峙しながらも、秀峰羊蹄山に見守られ豊かな自然の恵みを受けて、留寿都村は農業と観光の地として発展を遂げてきた。開村100年を迎えるに当たり、郷土の礎を築いた先人達の偉業をたたえ、村の歴史を支えてきたこの地に記念碑を建立する。 平成9年7月1日 留寿都村
【子爵加藤公頌徳碑】
「正二位勲一等伯爵土方久元書」と刻まれている(説明板等はなし)。
【留寿都村神社由緒記】
概要は次のとおり。開墾の鍬を入れ安住の地たらんと欲し明治27年愛媛県久米郡八幡神社の神霊を加藤農場が住人の守護神として奉斎。(以下略)
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