令和6年(2024)3月23日(土) 札幌市桑園~烈々布開基百年碑~篠路神社~北大~桑園 往復 約28km 3時間30分
当方が所属する練習会に参加するとともに、長距離練習をするため、桑園のたまゆらに荷物を預け、篠路まで走ることにする。創成川沿いにサイロを見つける。百合が原公園の北端の烈々布会館の敷地に石碑を見つけた。
【篠路烈々布開基百年】
表面には、上記のとおり刻まれ、「札幌市長 板垣武四」と刻まれている。碑の背面には、
「蝦夷地開拓の志に燃えて此の地に入植艱難辛苦を経て今日の発展を見る風雪百年幾多先人の労苦を偲びこの碑に感謝の意を表す 篠路烈々布開基百年記念協賛会」と刻まれており、これに「顧問」、「参与」、「会員」の多数の氏名が続いて、最後に「昭和五十七年八月二十日建立」と刻まれている。
碑の脇には説明板が立てられていて、そこには「篠路烈々布開基百年」碑。「この地は、明治14年(1881年)福岡県人が報告社を組織して、北海道に渡り開墾した時、明治16年(1883年)にその一部、5、6戸が烈々布に入植したのが始まりである。「烈々布」という地名は、アイヌ語に由来したものと言われている。碑は、先人の労苦をしのび、入植以来百年を記念して昭和57年に建立されたもので、白みかげ張りの高さ1.3メートル、奥行き90センチメートルの台座の上に、幅1.2メートル、高さ75センチメートルの黒みかげ石を建て、本碑としている。正面に「篠路烈々布開基百年」と刻字、この文字は板垣武四札幌市長の揮ごうによる。」と記されている。
約12キロを走り、ようやく篠路神社に到着した。境内には石碑が結構あった。
【第一鳥居奉納者芳名 碑】
碑の上部に「第一鳥居奉納者芳名」と刻まれ、その下に多数の氏名が並んで刻まれている。碑の背面中央部には、「篠路神社宮司 北方 一 第一鳥居建設委員(16名) 住吉正三郎謹書」と刻まれている。台座の背面には、「中央青年同志會〇力」と刻まれているが、一部は風化して判読できない。
【御造營記念碑】
白御影石でできた石板が置かれ、碑面には次のように刻まれている。「御造營記念碑 篠路神社由緒畧記 御祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ) 保食大神(うけもちのおおかみ) 品陀別大神(ほんだわけのおおかみ) 烈々布天満宮 大正神社 山口金刀比羅宮 拓北伊夜日子神社 由緒
徳川末期 幕府は箱館に奉行所を設け、東蝦夷地と千島を直轄する傍ら、道央内陸部の警備と開拓のため石狩調役以下を置いたが、安政二年、幕臣荒井金助直盈が幕命をうけて從者十二名を卆い、北辺警備のために移住して篠路村の基を開き、小村を設け守護神として若宮八幡(江戸)の神霊を奉斎して八幡神社を創祀したのに始まり、後、祭神二柱を増祀、拝殿と石の間を増築して明治三十四年一月二十八日公認を出願、同年九月二十五日無格社として許可、昭和二年八月一日村社に列格 昭和二十一年二月、社格を廃止して神社本庁所属神社となる 昭和五十五年九月、御創祀百二十五年記念祭を迎え、社殿及び社務所の御造営事業竣工、茲に奉賛者の芳名を謹刻し、敬神の至誠を萬代に讃えんとす。昭和三十五年九月吉日建之 篠路神社御造営奉賛会」
碑の背面には、「篠路神社御造営奉賛者芳名録」として、多数の氏名が刻まれている。
【平和顯彰碑と副碑】
碑面には大きく「平和顯彰碑」と刻まれている。中台には多くの氏名が刻まれている。台座の上台の背面には、「発起者 遺族會 清和會」と刻まれている。
背面には、2枚のプレートがはめ込まれており、次のとおり記されている。「建設の書 本碑は元忠魂碑だったが終戦直後GHQの命により撤去す 再建を期し発会せる遺族会清和会の手により昭和二十二年八月十五日平和顕彰碑と改め英霊並に開拓功労者を合祀し永久不滅平和の守護として再建し毎年祭事を催行し〇十回より篠路神社主祭となる 昭和四十四年六月二十日清和会文」と記されている。
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