令和6年(2024)4月6日(土) 広尾町内 11時頃出発 20.4km 3時間39分
絶好の快晴の下、広尾町内をランニングして、史跡訪問、登山することに。役場に車を停めて、まずは十勝文化発祥之地を訪問する。
【十勝文化発祥之地】
説明板が隣にあったので、概要を記す。「昭和33年開町90周年を記念して11月3日に序幕。このちは江戸時代から明治中期までの一世紀に渡り、十勝の政治経済、教育文化の中心として多くの施設が櫛比していた地。文化年間(1804~1818)トカチ会所前からこの地がトカチ場所の中心だった。明治6年仮副戸長、7年十勝戸長、同13年に広尾・当縁郡戸長が置かれた。(以下略)。
【会所跡】
グーグルマップ上では出ているのだが、空き地になっていて、説明板等も見つけることができなかった。
【広尾学校跡】
標柱に次のとおり書かれていた。「史跡 広尾教育所のち広尾学校跡 明治十二年広尾小学校として創立」
十勝神社の境内に頌徳碑があった。
【頌徳碑】
正面には上記のとおり刻まれ、その下には説明板があった。判然としないが、わかるキーワードだけ転載。「干場定五郎翁 明治三十一年 青森県下北郡蠣崎村より本町に移住専ら漁業に従事すその至誠明敏豪放進取の気象に富み温情よく人を法要す大正五年村会議員に当選・・・(以下略、不明)。
十勝神社に参拝。まさに「十勝」神社なのだ。
【御由緒】ネットより転載
寛文6年(1666)6月福山藩主武田廣林の十勝国警衛の祈願社として領主蠣崎蔵人が創祀し、当時より刀勝大明神と称えて鎮祭していた。その後シマウス海岸に漂着した流木が龍神の形のようだったところから神体として祀るようになった。爾来漁業が豊かになり地方の崇敬は益々厚くなり、この流木に彫刻を加えて木像とした。その年月日は不詳であるが丈4寸余りの小像で聖徳太子に似ていたと伝えられる。寛政10年(1799)11月には近藤重蔵がエトロフよりの帰路、広尾・様似間の新道開発の記を献額している。明治7年開拓使社寺係取調の際広尾出張所派出14等出仕酒井忠郎が調査上申の末、同8年12月社寺係の通達により仏像及び仏具は悉く退け、同時に祭神を大海津見神と称号することとし、明治9年3月郷社に列せられる。同16年社殿の損壊に伴い改築及び鹽竈神社・稲荷神社の合祀を出願し許可される。同22年6月30日社殿が落成し、大正4年9月神饌幣帛料供進神社に指定される。大正5年5月移転改築が許可され同7年12月現在地に改築竣工し奉遷
【町指定文化財 石灯籠】標柱
慶応二年(1866)トカチ場所請負人福島屋の雇船であった越後糸魚川の大野屋源右衛門所有の北前船「嘉宝丸」の先導嘉次郎が航海の安全を祈って、トカチ明神社に奉納したものである。(以下略)
【広尾駅跡・鉄道記念公園】
大丸山に行く途中、広尾駅跡と鉄道記念公園に立ち寄った。
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