広尾町3(東蝦新道記・仙台藩トカチ陣屋跡)

石碑等(開拓記念碑)

令和6年(2024)4月6日(土) 広尾町内 11時頃出発 20.4km 3時間39分

 大丸山・丸山をあとにして、十勝神社の国道沿いに「東蝦新道記・彫字板」の説明板があった。本体は神社内にあるのだろうか。

【東蝦新道記・彫字板】(ネットより転載・概要)
 ・寛政10年(1798)、近藤重蔵守重は幕府の命令で東蝦夷地を巡視し、国後・択捉に渡り、帰途立ち寄った広尾で、たまたま風雨のため滞在を余儀なくされ、広尾から日高に至る海岸の険に道路をつけようと、資を投じ、アイヌ数十人を雇って、ルベシベツ(広尾町)からビタタンケ(えりも町)の間、約3里(11キロメートル)に山道を開削しました。
・この道路開削は一行の最上徳内の献言といわれ、従者下野源助(水戸の学者木村謙次)の指揮によるもので、工成るのあと、下野源助は、榜示を建て、通行の人々に道路の維持を訴え、更に漢文で工事の顛末を記し彫字板として刀勝神祠に掲げました。
・現在の彫字板は旧板が傷んだことから万延元年(1860)箱館奉行の茶湲・鈴木尚太部重尚らが再書、再鐫したものです。
・東蝦新道記とは、東蝦夷地に新道を開削したという意で、原名は寛政10年以降にこの地を通った探険家、旅行家の記録に見られます。

 その後、十勝港を経由し、市街の南側から陣屋地区の学校の横の森の中に仙台藩トカチ陣屋跡があった。石碑と説明板があった。

 安政二年(1855)の箱館開港に伴い、江戸幕府は蝦夷地を再び直轄すると共に、津軽・南部・秋田・仙台・松前の北方の五藩に警衛地を割り当て防備を固めるように命じました。仙台藩は翌三年、白老に元陣屋を置いて本拠とし、根室・択捉・国後に出張陣屋を設けました。同六年には、先の五藩に庄内・会津の二藩を加え、警衛地を割り当てると共に、領地を与え移民による開拓を行うように命じました。そして十勝はこの時仙台藩の領地となったので、広尾に陣屋が設けられることになりました。明治元年(1868)戊辰戦争で仙台藩兵が帰藩したため、陣屋はトカチ会所が預かりましたが、明治3年(1870)年に十勝は東半分を静岡藩が、西半分を一橋・田安両家の分領支配となり、陣屋は田安慶頼が払い下げを受けました。

(石碑説明板)
 古きを温ね新しきを知る 洋の東西を問わず また最近の世相のなかにあっても生き続けている言葉です 三百数十年の古い歴史をもつ広尾町には数多い先人の足跡を見出すことは容易であります ここに僅か十年ほどでありますが、安政六年(1859)から明治元年(1868)まで仙台藩トカチを領有し、北辺警備のかたわら耕作を奨励し、民心の慰撫、撫育にあたったものに仙台藩陣屋があります。この地円山の麓に土塁をめぐらし、勤番の士が僻遠酷寒のなかにあって、日夜望郷の念にかられながらも尚 北の防人として開拓経営にあたったことに思いをいたすとき 苔むす一基の墓碑にも涙をそそがざるを得ません 今にも残る土塁 厩出 虎口 井戸にそのおもけげを偲び ここに陣屋跡地碑を建立いたしました この碑が新しい時代にいきるものにいささかの心の糧ともなれば幸いであります 昭和五十年十二月吉日 (以下略)

(説明板)
 安政2年(1855)幕府は東北6藩に蝦夷地の経営を命ずるが、仙台藩は6月に出入司・三好武三郎清房に東蝦夷地持場見分を行わす。三好はこの時トカチ会所に立ち寄りトカチの縄張りを行い10月に帰国している。安政6年(1859)トカチは仙台藩の知行地となり、円山の麓に陣屋を構えた。工事は翌7年まだ雪のある中で始まったと思われる。面積は約1.2ha、ほぼ円形で、勤番は目付代官に勘定方、医師、家士、足軽をはじめ鍛冶、大工、杣夫などの職員をいれて2~30人で居宅は5間に15間の75坪、その後増築し、鉄舟後の払い下げ時は91坪であった。このほか武器蔵、雑蔵、食料蔵、板蔵などがあり、構は土塁の高さ4尺、厩出しが高さ6尺虎口で、その一部が現存している。勤番の士は半年交代であった、お手伝いと称し無給の勤番もあった。赴任にあたっても「催し合い」という相互扶助で旅費の捻出がなされた。陣屋の周辺に穀菜の試作も行われ大根、アワ、ヒエ、大角豆などを作った。安政7年(1860)奥州一ノ宮、塩釜神社の御分霊を勧請したが、明治16年暴風雨で社殿が破損し十勝神社の境内社となって、同22年合祀された。明治元年東北諸藩の政府軍への降伏で陣屋は撤収され、私設はトカチ会所元で預かり、明治3年田安家に引き継がれた。跡地は官有地旧跡として保存されたが広尾小学校の新築、改築で土塁の大部分が破却し、井戸も解体され、復元して広尾海洋博物館に展示されている。ちなみに仙台藩関係の陣屋跡として残っているものは、白老と広尾の2か所で、国後・択捉・厚岸についてはそのおもかげをとどめている。

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