平成22年(2010)12月31日(金)
舞岡公園:神奈川県横浜市戸塚区舞岡町645-8
浄土真宗本願寺派長光寺:横浜市栄区小菅ヶ谷4
大晦日であり、稽古納めをする。近場の舞岡公園。夏に来たが、スズメバチなどがおっかないので、中にはいるのは控えてきた。家の近くの長光寺を訪問。
【長光寺】
菅谷山医王院と号し、伊豆の豪族伊東祐親の孫祐光が鎌倉時代に創建したと伝えられている。
祐親は伊豆に流された文覚上人を寄寓させ、上人自体の薬師如来像を贈られた。この像は祐親から子の祐清に渡ったが、頼朝の挙兵による砥並山の合戦で祐清が戦死すると、その子祐光はこの像を持って母と妻とともに鎌倉に来て、父の菩提をとむらうために入道して道念と名乗り、小菅ヶ谷に一字を開き、東照山医王院と号したという。
医王とは薬師如来の別名であるから、本尊はその薬師如来であったと思われる。その後、親鸞聖人に帰依し、天台宗から浄土真宗に改宗し、名も浄心房了源と改めた。
また、了源の孫了諦のとき、本願寺三世覚如上人より「長光寺」の寺号を授けられたと伝えられている。
戦国時代、小田原北条氏によって真宗寺院が弾圧された時、武州稲毛加瀬村に避難したとも言われ、文禄元年(1592年)に僧善立が、門徒一同と協力して寺を再建し、山号を小菅ヶ谷の地名によって「菅谷山」としたと伝えられる。
文覚上人作の薬師如来像は通称「花立薬師」といわれ、駒20cmの木彫座像で、駒6cmの金銅製の胎内仏を持っている。 慶長の頃、徳川家康がこの辺りで鷹狩りをした時、鷹が大松のこずえに止まって降りてこなくなり、困った家康が付近の小堂で休息し、中に安置されている薬師如来を礼拝すると、不思議なことに、鷹は家康の手に戻ったという。
そこで家康は野辺の花を摘んで、薬師如来に手向け、後に三つ葉葵の徳川の紋を下附したと伝え、これ以後この薬師は「花立薬師」と呼ばれている。 この薬師如来像は現在も長光寺に現存している。
また鎌倉時代に親鸞聖人は七体の太子像を刻んだと伝えられるが、ここにそのうちの一体がある。
この寺には江戸までの近世古文書が数多く所蔵され、江戸時代の浄土真宗、とくに当時の寺と民家との関係を知るために貴重な資料が多く、それらは横浜市文化財調査会から「長光寺文書」として刊行され、「古文書の寺」として有名である。
赤坂の所にも、古い町の名残がある。湧水も出ている。公園の高台から街並みが見える。さらに富士山、大山も見える。
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