令和6年(2024)4月14日(日) 岩見沢市栗沢地区
岩見沢から栗山に向かう途中、グループから離れて、栗沢市街の史跡を散策。たくさんあった。
【山田勢太郎翁像】栗山支所前
栗沢支所前に銅像があった。銅像の下に説明板が設置されていた。キーワードのみ転載。「慶応三年六月一日和歌山県生まれ、明治二十三年三月栗澤に移住、当時は開拓草創時、明治四十一年村長に就職、以来報徳道を信条とし二十有年間、教育、産業、その他諸版に憔悴。(以下、略)昭和拾年六月
【顕彰之碑】栗山支所前
栗山支所前に新しい石碑があった。裏面の碑文の概要は次のとおり。「明治二十五年二月四日 岩見沢村から分村して栗沢村が開村、以来百年の星霜を経て、今日まで発展、ここに開基百年を記念して、歴代首長の名を記し、顕彰の碑を建立。平成4年12月 栗沢町長 山田晃睦 (その後歴代戸長、村長、町長の氏名が書かれたあと、分村等の経緯が書かれていた)
【合併記念之碑 協働の心で築こう豊かな未来】
上記のとおり刻まれ、「第5代栗沢町長山田晃睦謹書」と刻まれ、裏面には栗沢町の詳細な歴史が刻まれていた。
役場支所から500mくらい戻り、住宅街の中に水田発祥の碑があった。
【水田発祥の碑】
自然石の表面には上記のとおり刻まれ、その横には「燈園 当番 西田多才止書」と刻まれている。裏面には次のとおり刻まれていた(ポイントのみ転載)。「碑文 滋賀県長浜市の河路重平・西田市太郎翁が、北海道に農場開拓の大志を抱き「必成社」を創立。現在の必成・幸穂・栗沢本町を含む五百町歩の土地貸下げを受け、明治二十六年農場開設と同時に九戸が南畠(南幸穂、南本町、北幸穂)に入植し、畑地の他に北畠(北幸穂)の西を流れる細流を利用して水田七反歩を造田試作したのが、栗沢長における稲作の始まりである。また時の滋賀県知事大越亨がこれを聞き、その前途を祝しこの周辺を「幸穂」と名付けた。水田発祥の地は、この碑の西方で最上川の左岸に位置する。星霜ここに百有余年多くの先人先輩が想像を絶する苦難に耐えながら、今日の豊穣なる美田良圃の礎を築かれた偉業を讃え深く敬意と感謝の誠を捧げる。平成十二年五月建立
次に栗沢神社の方面に移動すると、道路沿いに石碑がまたあった。巨大な石碑で表面にびっしりと文字が刻まれているが、ネットで調べると開村五十周年記念碑である。
【聖恩・開村五十周年記念碑】
(表面は判読不明、裏面には村治功労者、開拓功労者、歴代理事者の名前が刻まれている)
神社境内の方に進むと消防記念碑があった。
【消防記念碑】
表面には上記のとおり刻まれ、その横に「北海道庁警察部長斎藤亮書」と刻まれ、裏面にはおそらく消防組合の沿革が刻まれていた。
神社境内にはたくさんの石碑があり、忠魂碑や慰霊平和祈念の碑があり、戦没者に頭を下げる。社殿の横には土功組合の碑があった。
【栗澤村土功組合 墾田之碑】
巨大な山型のコンクリートの真ん中には上記のとおり刻まれ、その横には「安藤 廣太郎書」と刻まれている。両サイドには説明板があった。概要は次のとおり。「15000町歩を包含、その開拓は明治23年に始まる。爾来畑作の為地力を減耗。夕張川における水利権の確保を痛感し明治36年、前途を憂慮する本田榮三郎氏は水田開発が最善と確信し、村会議員等有志と北海道庁に陳情。明治41年10月関係地主大会を開き期成を決議。半年にわたり実測した結果引水可能なことを拓任氏土坑組合設立を企画。本田栄三郎、山田勢太郎、河路重平の三氏を創立委員に組合設置を申請、明治43年1月31日長官河嶋閣下より認可。金7万7千円の地方貸付、金1万円の地方費補助を得る。1千町歩の灌漑施設は明治45年3月完成、同年5月乾癬延長5174間の通水。第二期工事は大正4年8月着手大正6年完成。新たに3百町歩を加え、次いで揚水機による2百町歩の拡張、大正12年に竣工、総工事費34万3千円、2500町歩造田。創設30年により記念碑を建てる。昭和16円11月。」
左側の説明板には、功労者の名前が刻まれていた。
神社をあとにして国道に戻ると、道沿いに「侍従御展望記念碑」があった。
【侍従御展望記念碑】
上記のとおり刻まれ、「空知支庁長従六位勲六等永山政能書」と刻まれている。
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