令和6年(2024)5月11日(土) 岩見沢市北村温泉~石川啄木歌碑~千間道路・不動明王堂~美唄達布地区~松浦武四郎宿泊地~北村市街 16.1km 2時間14分
北村市街を出て北の方に走っていく。カーブの手前で石川啄木の歌碑があった。
【石川啄木歌碑】
新しい三本の石柱の左側には啄木の歌が刻まれ、右側は「鹿子百合の碑」でびっしりと文字が刻まれていた。「石狩の空知郡の牧場の お嫁さんより 送り来しバタかな」歌集「悲しき玩具」より。「石川啄木があこがれた橘智惠(戸籍:チヱ)は北海道庁立札幌高等女学校卒業後補習科に進み一九〇六(明治三十九)年三月函館区立弥生尋常小学校訓導となった。
翌40年6月代用教員として採用された石川啄木は、智恵を「真直ぐ立てる鹿子百合」にたとえ、美しい同僚の存在に強く心ひかれるものがあった。不幸にも同年八月の函館大火によって職を失った啄木は、智恵の下宿先を訪れて処女詩集「あこがれ」を贈り、札幌へと旅立って行った。その後病を得て職を辞し、療養に専念して全快した智恵は、札幌農学校で兄の学友であった若き牧場主北村謹のもとに嫁ぐこととなり、明治四十三年五月、石狩川を汽船で遡って、空知郡北村の北村農牧場(後の北村牧場)に来たのであった。
啄木は明治四十三年末に出版した処女歌集「一握の砂」を智恵に贈ったが、この歌集に収められた「忘れがたき人人二」二十二首は、智恵を歌ったものである。
のちに「空知ホルスタインの父」とたたえられる夫と共に、多忙な毎日をおくっていた智恵は、啄木が東京で肺を患い、栄養もままならない貧困の生活をおくっていることを風の便りに聞き、当時高価で入手難だったバターを、夫の同意のもとに、歌集へのお礼の気持ちを込めて、かつての同僚に贈った。
一九二二(大正十一)年十月一日、智恵は産褥熱のため、愛する夫と六人の子を残して、空知郡岩見沢町の岩見沢病院で、この世を去った。満三十三才であった。私たちはこの美しいエピソードを永く後世に伝えるため、この碑を建設する。一九九九年十月 北村歌碑建設期成会」
石川啄木歌碑からさらに奥に進むと「北村牧場の碑」があった。
【北村牧場の歌碑】(ポイント)
北村開拓の始祖北村雄治の弟強は、1906年春この地に牧場を開設。1917年ホルスタインの種牛の払い下げを受ける。大規模なサイロを建造。進歩的経営、優秀な乳牛の生産棟は村内、空知にも大きな影響を与え、空知のホルスタインの父とも称せられた。(以下、略)2000年10月8日 北村牧場親族一同
コメント