令和4年(2022)1月2日(日)
札幌市北区新琴似(菅進先生像、若山牧水来訪の地)
家~新琴似北公園往復
9時頃出発 15.0km 2時間6分
新年あけましておめでとうございます。
走り初めは、吉方の北東の新琴似方面に向かうことにした。琴似神社と新琴似神社に初詣に行ったが激込みであり、並ぶのが嫌なので断念した。いつも神社に参っているので良しとしよう。
今日の目的地は、新琴似北公園にある「菅進先生像」と新琴似神社の向かいにある「歌人若山牧水来訪の地」説明板である。
【菅進先生像】
その像は公園の中にあるかと思ったが、新琴似北会館の建物の横にあった。白御影でできた台座の正面には「菅進先生」と記されたブロンズ板が付けられている。胸像の前には黒御影でできた副碑が置かれており、次のとおり記載されていた。
「正六位勲五等札幌市市政功労者菅進先生は明治三十五年八月屯田兵二代目として新琴似に生る長ずるに及び産業自治文化等に多くの事績あり特に琴似町議会議員を経て札幌琴似合併後札幌市議会議員として通算二十四年の長きに亘り札幌市政に参画この間各種の公職を歴任昭和三十年代新琴似の宅地化進行に伴うとしか生活基盤整備に奔走市北部の地域格差の是正に貢献新琴似の発展に全生涯を捧げた功績は偉大である私ども地域の有志相諮り先生から寄贈を受けた土地資金を基に建設された新琴似北会館の一角を卜し先生の胸像を建立して後世に伝承する昭和五十五年五月吉日 菅先生顕彰胸像建立期成会」
次に訪問を目指したのが、若山牧水来訪地の説明板である。「歴史のあしあと 札幌の碑」さんによると、新琴似小学校の南側とあったので、住宅街の方を含めて探索したが、結局学校の周りを一周近く回り、大きな通り新琴似神社の正面に説明板はあった。
【歌人・若山牧水来訪の地】説明板
説明板には、晩年の牧水の顔写真が掲げられ、「歌人・若山牧水来訪の地旅と酒をこよなく愛した歌人・若山牧水が喜志子夫人を伴い、この地を訪れたのは大正15年(1926年)11月14日。牧水が主宰する歌詩(誌?)「創作」の社友・白水春二宅で一泊、新琴似短歌会同人と歓談した。ときに42歳。新琴似を詠んだ歌はないが、紀行文の一節に「咫尺を辯ぜぬ(注:視界がきかず、近い距離でも見分けがつかないこと)といふ吹雪に出會ったのは(中略)札幌から新琴似村に行く宵闇のなかであった。」と記されている。そして翌朝、30センチほど積もった雪の中を、同社友・吹田晋平の仕立てた馬そりに乗り、鈴の音をききながら札幌へと向かった。」と記されている。
ウイキペディアによると、若山牧水は明治18年宮崎県生れの戦前の歌人、早稲田大学卒業。旅を愛し、生涯にわたって各所で歌を詠み、鉄道旅行を好み、鉄道紀行の先駆者。酒好きで1日1升程度の飲んでいたといい、43歳で亡くなった死の要因は肝硬変だそうだ。
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