令和3年(2021)12月30日(水)
函館市(函館駅、土方歳三最後の地碑、中島三郎助親子最後の地碑)
14:25発 14.5km 1時間54分
函館市石川町蔦屋書店~函館駅~五稜郭町~湯の川温泉
家族と湯の川温泉に泊まるため函館を久々に訪問。蔦屋書店から国道5号線を通って、函館駅に向かう。この駅は何回も来ているが、旧函館駅の碑と函館本線0マイル地点記念碑があるので訪問する。金属板の碑は読み取れなかった。
【函館本線0マイル地点記念碑(初代函館駅所在地の碑)】
北海道開拓の重要性から鉄道国有化の世論が起こりつつあった明治35年12月10日に第一期工事(函館・桔梗・七飯・本郷(現在の渡島大野))が完了し、旧函館駅が現在の「海岸町10番地」に開業しました。
しかし、港の連絡が不便が多いため、明治37年7月1日に函館駅が現在の地に移設され、旧駅は「亀田駅」と改名されましたが、明治41年3月に類焼し、同年8月29日に廃駅となりました。
この記念碑は、昭和37年10月14日に道南地方の鉄道発祥の地として函館市海岸町10番地に建立され、平成2年7月には海岸町の宅地化に伴い、青函連絡船が運行されていた頃の岸壁付近に移設されましたが、平成26年10月には、より多くの皆様にご覧いただき永く記念するため、「碑」をこの地に移設しました。 北海道旅客鉄道株式会社
函館駅から高砂通りの西側を走り若松町の土方歳三終焉の地に向かう。ここは何度か訪問しているが、カラーの立派な説明番が立っていた。
【旧来からの説明板:土方歳三最後の地】
新撰組副長として京都の街に勇名をはせた土方歳三は鳥羽伏見の戦いの後、新撰組を率いて各地を転戦して北上し仙台で旧幕府海軍副総裁榎本武揚が指揮する脱走艦隊と合流した。
明治元年(1868年)10月、蝦夷地(北海道)に上陸した榎本軍は箱館を占拠して新政権を樹立、土方はその陸軍部長並の要職についた。
翌2年4月、新政府軍の総攻撃に榎本軍は各地で敗退したが、土方が守った二股口(現:北斗市)は最後まで落ちなかった。
しかし、同年5月11日、ついに箱館も政府軍の手に落ちた。土方は箱館奪還を目指し、50名の兵を率いて一本木(現:若松町)の関門を出て函館の市中に向かい、敢然と切り込んでいったが、銃弾に当たって倒れ波乱に満ちた生涯を閉じた。時に35歳であった。 函館市
新しい丸い説明柱には、箱館戦争の状況が詳しく書かれていたので、転載する。
【新政府軍箱館総攻撃 土方歳三 激闘の中戦死を遂げる】
1869(明治2)年5月11日(旧暦)早朝午前3時から新政府軍の箱館総攻撃が実施された。新政府軍陸軍部隊は箱館山の裏側の寒川付近から山上に登頂し、薬師山から愛宕山、七面山を下り箱館市街地へ殺到し、短時間で箱館市街地の制圧に成功して、箱館守備隊の旧幕府軍が弁天台場へ孤立する状態となった。また、函館港内へは早朝から新政府軍艦甲鉄、朝陽、春日が進行し、弁天台場や旧幕府軍艦(回天、蟠龍)へ砲撃する海戦となった。一時は、旧幕府軍艦蟠龍が新政府軍朝陽を爆沈させたが、その後に旧幕府軍艦の2艦は操船不能になり、乗組員は上陸し弁天台場や五稜郭へ敗走した。旧幕府軍海軍は全滅状態となり、箱館港内も新政府軍の制圧かに置かれた。また、七重浜方面の戦闘も新政府軍が圧勝することとなり、旧幕府軍兵士は五稜郭へ敗走した。旧幕府軍は五稜郭、千代ヶ岡陣屋に孤立することとなり、箱館方面への連絡路も絶たれた。
「箱館戦争図」は、この新政府軍箱館総攻撃が決行された当日の状況が詳細に描かれた絵図である。明治元年から2年にかけて行われた箱館戦争は、この最大の決戦を境に終結を迎えることとなった。総攻撃の翌日から降伏勧告の交渉が開始され、5月18日に旧幕府軍が降伏して箱館戦争は終結した。
次に五稜郭近くの「中島三郎助父子最後の地」を訪問した。
ここにも、新しい丸い説明標柱が設置されていた。
【中島三郎助父子最後の地】
中島三郎助は浦賀奉行配下の役人であったが、安政2年(1855年)に幕府が創設した長崎海軍伝習所の第1期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となった。
維新後、明治元年(1868年)10月、彼は榎本武揚と行動を共にし、軍艦8隻を率いて北海道に来た。箱館戦争では、五稜郭の前線基地であった千代ヶ岡陣屋の隊長として、浦賀時代と仲間とともに守備についた。
新政府軍は箱館を制圧すると、降伏勧告をしたが、中島はそれを謝絶して戦闘を続け、明治2年(1869年)5月16日に長男恒太郎や次男栄次郎と共に戦死した。「ほととぎす われも血を吐く思い哉」という辞世の句を残した。
昭和6年(1931年)に、中島父子にちなんで、千代ヶ岡陣地のゆかりの地が中島町と名付けられた。
五稜郭から湯の川温泉に向かう途中、駒場車庫のところに、馬車鉄道の説明板を見つけた。
【函館市民の心をとらえた馬車鉄道】
「馬鉄(ばてつ)」の名で親しまれた函館の馬車鉄道は、宮城県出身で、当時湯の川に住んでいた佐藤祐知氏らのご尽力により、湯の川温泉と函館の発展を願い、明治30年(1897年)の12月に北海道ではじめて開業されました。
2頭の馬が客車を引いてレールの上を走る姿はハイカラ好きの市民の心をとらえ、それまで主流だった人力車よりも運賃も安く、乗り心地がよかったこともあり、たちまち市民の足として定着しました。
はじめて開通した路線は、当時最も人口の多かった東川町本社前と弁天間の3.27kmで、その後も路線網を拡大し、最盛期の英字39年(1906年)には1日の利用者数が11,000人にも達しました。
函館水電に買収された馬車鉄道は、大正2年、電車に姿を変え、今も市民や観光客の足として活躍しています。
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