浜街道(絹の道)1

その他旧街道・旧道

 平成24年(2012)1月4日(水) 8:20頃八王子~12時頃町田 

 本来、今日は初出勤なのだが、国の場合、相手にすることが多い国会議員も少ないことなど、業務量的に少ないので、出勤する者は少ない。このため、自分もお休みさせていただくことに。
 正月休みの最終日なので、近場で気になっていた街道ランニング。絹街道である。これは絹の産地、八王子から船に積み込む横浜までの道のりである。

【絹の道】以下、ネットより拝借
 安政6年(1859)横浜港が開港され、輸出が始ると日本の生糸が横浜から大量に欧米へ送られるようになった。八王子は関東周辺、多摩地域の生糸の集積地であったが、直接八王子から横浜へ生糸が送られるようになる。このとき八王子市「遣水」地区の商人が仲買として、大きな利益を上げ「遣水商人」として名前を挙げることになった。生糸は馬、人力により八王子から南下し、「遣水峠」を越え、田端、小山を抜け、境川沿いに原町田に出て横浜港へと向った。このことにより「遣水」の人々は大いに栄える事になるが、長くは続かず、鉄道の開通などにより、「遣水商人」達にも繁栄は終りが告げられる。この道は「浜街道」と呼ばれていたが、昭和20年代に研究者により「絹の道」と名付けられた。現在開発により大部分に道は失なわれてしまったが、一部「遣水峠」に「絹の道」として古道が整備されている。

 八王子駅を出て、八日町交差点から国道16号線を走る。 最初に片倉城址に向かう。

【片倉城址】(片倉公園パンフレットより)
 現存する遺構は歴史的にほとんど不明ですが、室町時代の初期に築城されたと言われています。
15世紀後半、鎌倉幕府初期の重臣・大江広元を祖にもち関東管領家の扇谷上杉氏の家臣であった長井氏によって築城されたとも言われていますが定かではなく、また城主も城が放棄された時期も明確には判っていませんが、扇谷上杉朝定によって再築された深大寺城と、築城の特徴が類似しています。
 先端部分の東側(本丸広場)が主郭で、住吉神社のある所が腰郭、西郭(二の丸広場)南に大きく張り出し、東部の主郭を守るような形を成し、その前方には、大手から来る敵に対して防御を考慮した造りです。
二つの郭は空堀によって区画され、空堀は鉤の手に掘り込んであり、曳橋か跳橋によって連絡されていたと考えられます。
 西郭(二の丸広場)は、東郭に比べて約2倍の広さを持ち、ほぼ完全に空堀が巡らされており、その空堀は北に向かって深く落ち込み、そこに湧水があります。
 後世の改変が加えられているものの空堀・土塁等の名残りがあり、15世紀後半の中世城郭の形態を示す典型的なものです。平成11年3月、東京都から史跡に指定されています。

【慈眼寺】お寺のHPより
 曹洞宗・白華山(はくかざん)慈眼寺は今から570年あまり前、室町時代の文安2年(1445年)に心安守公和尚により開山されました。
 白華山慈眼寺の名は「晋山上堂の夜、白華庭前に開くと夢む」*という謂われより山号を白華山としました。
*訳:晋山式(新しい住職が正式に寺に入る儀式)の夜、庭に白華が開くという霊夢を見た。
 また、法華経第25品「観世音菩薩普門品」中の「具一切功徳慈眼視衆生」の深意をとって慈眼寺といたしました。
 当山は、武相観音第42番札所としても多くの方々に参詣していただいております。

 八王子パイパスの上を横切り、急な会談を登ると鑓水峠。八王子市街がよく見渡せた。

 峠の上は、大塚山公園となっているが、道了堂という寺があった場所だそうな。

 次に、現在も人が住んでいる小泉家住宅。明治11年の建築で、多摩南西部丘陵地帯の典型的な建築様式だそう。橋に絹の道のレリーフ。

【田端遺跡】
 環状列石で、縄文後期中頃から晩期中頃、約3,500年から2,800年前のものだという。楕円形であるが、長軸上に富士山があり、冬至には蛭が岳頂上に沈む夕日を観測できるという。昔の人は不思議なものをつくったのだが、こうしたことの名残りが現在に残っていないのも不思議だ。

 桜美林大学を通り、町田駅に向かう。

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