平成23年(2011)12月31日(土) ロープウエイ 家族
山梨県南巨摩郡身延町身延
家族旅行で、30日に蒲郡に泊まった後、富士山周辺に移動の途中で、身延山に行くことに。ロープウエイでお手軽登山。富士山や南アルプスが見渡せ綺麗でした。しかし、マムシ注意の看板があちこちにあり、夏は暑さと相まって、これないなと痛感。
【身延山久遠寺】ホームページより御由緒を転載
鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした日蓮聖人は、三度にわたり幕府に諫言(かんげん)を行いましたが、いずれも受け入れられることはありませんでした。当時、身延山は甲斐の国波木井(はきい)郷を治める地頭の南部実長(さねなが)の領地でした。日蓮聖人は信者であった実長の招きにより、1274(文永11)年5月17日、身延山に入山し、同年6月17日より鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に構えた草庵を住処としました。このことにより、1274年5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開闢(かいびゃく)の日としています。日蓮聖人は、これ以来足かけ9年の永きにわたり法華経の読誦(どくじゅ)と門弟たちの教導に終始し、1281(弘安4)年11月24日には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山久遠寺」と命名されました。翌1282(弘安5)年9月8日、日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かいましたが、同年10月13日、その途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)にてその61年の生涯を閉じられました。そして、「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」という日蓮聖人のご遺言のとおり、そのご遺骨は身延山に奉ぜられ、心霊とともに祀られました。その後、身延山久遠寺は日蓮聖人の本弟子である六老僧の一人、日向(にこう)上人とその門流によって継承され、約200年後の1475(文明7)年、第11世日朝上人により、狭く湿気の多い西谷から現在の地へと移転され、伽藍(がらん)の整備がすすめられました。のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護(げご)を受けて栄え、1706(宝永3)年には、皇室勅願所ともなっています。日蓮聖人のご入滅以来実に700有余年、法灯は綿々と絶えることなく、廟墓は歴代住職によって守護され、今日におよんでいます。日蓮聖人が法華経を読誦し、法華経に命をささげた霊境、身延山久遠寺。総本山として門下の厚い信仰を集め、広く日蓮聖人を仰ぐ人々の心の聖地として、日々参詣が絶えることがありません。
身延山の後は富士山へ。西湖周辺の紅葉台に車で登る。これまた絶景でした。
紅葉台の後、宿泊先の忍野村の民宿へ。夕食前に、忍野八海などを散策。こじんまりとした家庭的な民宿でした。料理がうまい。
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