石垣島(桃林寺・宮良殿)

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平成30年(2018)1月31日(水) 石垣市街~桃林寺~宮良殿内 約3km、約1時間  

石垣島出張中。夕方に時間ができたので、町中を走って、石垣島の雰囲気と歴史を堪能することに。
730記念碑の交差点から、石垣市役所とJAの横を通る。市役所の建物は年季が入っている。 

 まずは、バスでも通った桃林寺に行ってみる。仏教のお寺なのに、沖縄風の建物である。お寺のホームページはないが、ウイキペディアによると次のとおり。歴史を感じる。

【桃林寺】
 桃林寺(とうりんじ)は、沖縄県石垣市にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は南海山。本尊は観音菩薩。八重山列島で最古の仏教寺院である。本項では、隣接する権現堂(ごんげんどう)についても併せて説明する。
薩摩藩から八重山への社寺建築の進言を受けた王朝7代目国王尚寧王によって、1614年に鑑翁西堂を開山とし桃林寺が創建されるとともに、隣地に権現堂が創建された。桃林寺は当初は真言宗であったが、禅宗となった後、現在は臨済宗妙心寺派の寺院になっている。権現堂には熊野権現(伊弉冉尊・速玉男尊・事解男尊)が祀られている。御神体の銅鏡は1772年に鋳造されたもので、沖縄県内で鋳造された最古のものである。
桃林寺本堂及び権現堂の屋根は当初茅葺であったが、1694年に桃林寺本堂が瓦葺きに葺き替えられ、1703年には権現堂も瓦葺きとされた。1736年から翌年にかけて桃林寺の境内が拡張され、仏殿が建立されるとともに、1737年に山門の仁王像が制作された。1771年には八重山地震による大津波(明和の大津波)で桃林寺及び権現堂の建造物が破壊されたが、桃林寺は翌年に再建され、権現堂も1786年に再建された。なお、明和の大津波では仁王像2体も流されたが、崎枝湾の海岸に打ち上げられているのを発見された。
桃林寺は、1881年(明治14年)に改築された。1933年(昭和8年)に台風で山門や仁王像が被害を受けたが、1937年(昭和12年)までに修復された。現在の桃林寺本堂は1968年(昭和43年)に改築されたものである。
権現堂は、1882年(明治15年)に神殿を改修。その際に、拝殿及び薬医門が建て替えられた可能性も指摘されている。第二次世界大戦で大破したが1947年(昭和22年)に修復された。また、1972年(昭和47年)には権現堂神殿の解体修理及び拝殿の屋根葺替・部分修理が、1984年(昭和59年)から1985年(昭和60年)にかけては権現堂拝殿の解体修理及び神殿の部分修理が行われている。2006年(平成18年)に台風13号の影響で権現堂神殿が破損したが、文化庁の国庫補助を受けて、2年間保存修理を行い、2008年に完了した。

 次に、比較的近くにある「宮良殿」に行ってみる。町の中にあってわかりずらかったが、何とかたどり着き、中に入ると、おじさんが一人いて、「中は入れないけど、見ていきな?200円と言われ」、200円を払うと、「あんたどっから来た」とさらに言われ、北海道からと言ったが、大した驚かれなかった。この史跡は、昔の宮仕えの人の家だそうで、昔の名残を残している。玄関前に水たまりがあるので、聞いてみると、風水の関係と防火上の役割もあるそうな。

【宮良殿】
 宮良殿内(みやらどぅんち、めーらどうぬじい)は沖縄県石垣市にある琉球王国時代の邸宅。メーラヤラドゥヌジィとも呼んだ。建物は国の重要文化財で、庭園は国の名勝に指定されている。石垣港の北400メートルほどに位置し、所在地は沖縄県石垣市大川178番地。
 殿内とは地頭職の者の邸宅の敬称であり、宮良殿内は首里の士族屋敷をまねた建築とされる。宮良家8世の宮良当演が宮良間切の地頭職(八重山頭職)にあった1819年(文政2年)頃に建造された。
琉球王国時代の住宅は階級により厳重な規格があったため、この住宅も八重山の頭職(かしらしょく)には不相応として、5回にわたって取り壊しを命じられたが従わず1875年(明治8年)、検使の譴責により茅葺への葺替えが命じられた。1893年(明治26年)には石垣島を訪れた笹森儀助が宿泊し、家屋や庭園は沖縄県下で希である、と記している。1899年(明治32年)には再び瓦葺となった。宮良家に残されていた『万書付集』などの関連する古文書(『宮良殿内文書』)は、琉球大学に寄贈され、現在も保管されている。

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