令和6年(2024)6月30日(日) 帯広市上帯広~(道道62号線)~新嵐山スキー場下~(道道55号線)~上美生~(道道216号線)
芽室町上美生に到着する。公園の中に開拓記念碑が鎮座していた。書者は、元道職員の常山誠町長である。
【上美生開拓百年之碑】
銅鐸のような形の御影石に黒い御影石がはめ込まれ、上記のとおり刻まれ、その横には「芽室町長 横山誠 謹書」と刻まれている。その下の碑文には次のような概要が刻まれていた。
「碑文 太古の姿そのままに 日高の山なみに抱かれて 深い眠りのなかにあった上美生原野 その姿を知るものは清らかなる美生川の流れだけであった その眠りの扉を開き雨山を越えた人たちがいた 上美生の夜明けである
明治36年開拓の鍬を打ち込んだのは新潟の人 横山留蔵氏であった 氏は無願開墾であったが この地こそ理想の大地と想いさだめ 西上美生の地 九万余坪の無償許可を急ぎ申請し38年7月許可を得た 正に開拓の祖である
時を同じくして中島伊次郎氏が今の上美生市街地周辺を牧場にと牧柵づくりに着手し 木原清吉氏は美生川西に入地した 翌37年には本町開拓の祖の鈴木銃太郎氏が新大和を含む上伏古別に牧場を拓き 38年には榮前田勇次郎氏が西伏美に 39年には林三次郎氏がが東伏美 田島榮太郎氏が雄馬別地区に相前後し 内山孝太郎氏が雄馬別東地区 杉井運吉氏が北上美生にそれぞれ農場を拓いた 後年には横綱常陸山が新美生地区の貸し付けを得た。これが道庁古文書館に残る古文書記録が伝える
先人の出身地は様々であるが、この人たちが核となり、拠点となって多くの人々が入植し 厳しい自然と闘い 粗衣粗食に堪えながら 幾多の災害をのりこえ ひたすら開拓に尊い血と汗を流した
その間たがいに技と知恵を出し合い 一致協力して子弟のために学校を建て 心のよりどころとして神社 お寺を造営し 道路 橋梁の建設保全などに意をそそぎ 未開の原野を緑豊かな郷土に発展せしめた業績は偉大である その不撓不屈の精神が各世代に継承され あの長く厳しい戦争時代を乗り越え 畑作・酪農ともに特異な大型農業の生産基盤を形成し 文化施設も程よく整った山紫水明の郷土へ発展せしめた
星霜100年 ここに先人の辛苦を偲び 開拓の偉業を永遠に顕彰し 地域住民一丸となった更なる理想郷建設に向かって邁進することをちかい 上美生二世紀の一里塚としてこの碑をこの碑を建立 平成十四年八月吉日 事業協賛会」
電化記念碑があったが、ここでは割愛。しかし、畑の向こうの日高山脈が綺麗だ。
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