上杉謙信公家訓・上杉神社・稽照殿

神社

令和6年(2024)7月5日(金)米沢市中央~米沢城址~米沢藩主上杉家墓所 5.5km 1時間14分

 上杉謙信公家訓碑を訪問した後、上杉神社にお参り。

【上杉謙信公家訓16ヶ条】「宝在心」
一、心に物なき時は心広く体泰なり
一、心に我儘なき時は愛敬失わず
一、心に欲なき時は義理を行う
一、心に私なき時は疑うことなし
一、心に驕りなき時は人を教う
一、心に誤りなき時は人を畏れず
一、心に邪見なき時は人を育つる
一、心に貪りなき時は人に諂うことなし
一、心に怒りなき時は言葉和らかなり
一、心に堪忍ある時は事を調う
一、心に曇りなき時は心静かなり
一、心に勇みある時は悔やむことなし
一、心賤しからざる時は願い好まず
一、心に孝行ある時は忠節厚し
一、心に自慢なき時は人の善を知り
一、心に迷いなき時は人を咎めず

【上杉神社】神社ホームページより転載
 天正6年(1578)、3月13日、戦国の名将上杉謙信公は越後の春日山城にて49歳で急逝した。その遺骸は城中不識庵に仏式を以て鎮祭された。景勝公が会津を経て米沢に移封されるに当たり、御堂を米沢城内に移して仏祭を厳修した。明治の世を迎え御堂のまま神祭に改め、米沢藩中興の名君鷹山公を合祀して上杉神社と称し県社に列し、1876年(明治9)には新たに神殿が成り、遷座祭を行った。1902年(明治35)、往時の勤皇の功により別格官幣社に列せられた。(鷹山公は新たに摂社として松岬神社を創立して正面濠の外に鎮座)先年の神社制度の改革によって社格を廃して現在に至る。1919年(大正8)米沢市大火の際本殿以下ことごとく類焼し、1923年(大正12)米沢出身建築界の泰斗伊東忠太博士(文化勲章受章者)の設計により現在の神殿を始め一切を竣成した。境内は旧米沢城址本丸跡でその6割を占め、およそ6300坪、境域をめぐる堤上の桜花はお堀に映じ陽春4月の例祭には一段に美観を呈する。例祭は4月29日(歿年3月13日を太陽暦に換算)。上杉神社再建に当たり、家祖謙信公、米沢藩初代藩主景勝公、重臣直江兼続、9代藩主鷹山公の遺品・遺墨等を中心に収蔵、展示する稽照殿が創設された。

 上杉神社にお参りした後、稽照殿を訪問。館内は写真撮影禁止だった。

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