法音寺・米澤藩主上杉家墓所

古墳・ストーンサークル・墓所

和6年(2024)7月5日(金)米沢市中央~米沢城址~米沢藩主上杉家墓所 5.5km 1時間14分

 今日の最後の訪問地は、上杉家墓所。市街地から1kmほど西に走る。当初は館山城まで行こうと思ったが、暑いのでここで断念。墓所の前に上杉家菩提寺の法音寺があった。

【法音寺】お寺のホームページから転載
 法音寺は、山号を八海山といい、真言宗豊山派に所属し、本山は奈良県の長谷寺であります。
 当寺は、もと越後の国南魚沼郡藤原の里、八海山の麓(現在の新潟県六日町)に、聖武天皇の勅命により、天平9年(737)年に総建された寺です。
 当寺所蔵の八海山縁起によれば、藤原政照卿が、天皇の命を受けて諸国巡視中、越後国、飯盛山の麓で病死、その菩提を弔うため、行基菩薩が、勅命によってその地に法相宗の寺を建立したのが始まりとあります。寺号は政照卿の法名「都正院殿正二位政照法音大居士」に依ったものです。
 その後、越後国、真言宗国分寺兼務を命ぜられ、建久8(1197)年、源頼朝公の祈願寺となり、天正年間には、上杉家の帰依寺となって春日山に移されました。
 そして、慶長6(1601-400年前)年、会津を経て米沢に移られたのに随って、施主、景勝公によって、米沢城二の丸に伽藍が建立されました。景勝公御逝去の際は、法音寺住職能海僧正が葬儀の導師を務め、以後、歴代藩主の葬儀は、すべて法音寺住職が導師を務めることになり、上杉家歴代藩主の菩提寺となりました。米沢城下絵図(寛文の頃)より更に、大御堂に勤仕する真言21ケ寺の二の丸寺院の筆頭役、及び真言宗僧録司となり、藩内150ケ寺の統轄をするようになりました。
 その後、正保2(1645)年、嵯峨大覚寺より、院室名を永代兼帯することを許可され、院室菩提心院の号を贈られ、寺格は院主録所談林中本山となりました。
 やがて、明治に入り、廃藩置県、破城令、神仏分離令の措置により、明治3(1870)年、藩命により、歴代藩主の御廟所のある現在の地(法音寺住職の隠居寺として、江戸時代に延命寺が建てられ、住職は、朝夕、御廟所に出仕して御供養申し上げるのを主務としていた。それと合併して)に移転して復元されたのが現在の伽藍であります。
 又、明治9(1876)年、法音寺の移転、二の丸寺院の廃寺、米沢城が取り壊された本丸の地に上杉神社が造営されたのに伴い、謙信公の御霊廟も本丸より御廟所中央の現在地に移されました。
 なお、当寺の本尊は、大日如来尊で、更に歴代藩主の位牌を祀る上杉家御霊屋、善光寺如来尊並びに附属宝物、謙信公帰依の泥足毘沙門天、管谷不動尊等が奉安されており、その他上杉家に係る什物が多数保存されています。
 又、境内には、幸寿丸墓、矢尾板三印墓、景勝公への殉死者の墓、池田成章墓、上杉茂憲公句碑等があります。

【上杉家墓所】観光サイトから転載
 米沢藩を治めた上杉家の初代謙信公から12代斉定公まで歴代の藩主の廟が並ぶ「上杉家廟所」は、杉木立に囲まれた静粛で厳かな趣。参道を進むと、凛とした空気が感じられます。
 以前は2代目の景勝公を中心に左右交互に廟が建てられていましたが、越後春日山(新潟県)から会津を経て米沢城本丸に祀られていた謙信公のご遺骸が1876年に上杉家廟所に移され、現在の謙信公を中心に整然と廟が立ち並ぶ景観になりました。上杉家の質実剛健の家風を今に伝え、上杉家と米沢藩の歴史を物語っているかのようです。今でも、謙信公や歴代藩主を偲んで、全国から参拝者が絶えることはありません。

 お参りした後、街に戻り、シャワーを浴びて、宿の近くの台湾料理屋「楊佳苑」で晩酌。

コメント