令和6年(2024)7月6日(土) 米沢市街~館山城往復 10.9km
少し二日酔いだが、朝ランで館山城を目指すことに。直線距離で4kmほどなので、チャックアウト前には戻ってこれるだろうと目論む。
山に向かうので登り坂である。米坂線を渡り、傾斜が少しきつくなるところに説明板があった。
【館山城一の坂】
天正15年、時の米沢城主伊達政宗は館山に巨大な新城を築こうとした。南北に堀をうがち、堤を築いたが本丸築城まで至らず天正19年岩出城に移封された。この堤跡が並松土手と呼ばれる。
山が近くなり、川を渡ると館山城跡の説明板があった。進むと水力発電所があり、その横に登山道があるかと思ったなく、もう少し進み草が刈り取られた館山東舘と呼ばれる広場の奥に登城口があった。急斜面を登ると台地上のところでに出て、土塁やお堀があり城跡と確認。さらに奥に進み物見台と呼ばれる高台が、最も標高が高いところであった。帰り際に鹿らしき動物と遭遇。
【館山城跡】(説明板概要)
同城は、伊達政宗が天文17年に福島県桑折西山城から米沢に拠点を移した際の主城と考えられている。以後、輝宗、政宗と引き継ぎ、天正19年に政宗が岩出山城に移るまでの43年間をここで過ごした。本城は大樽川と小樽川に挟まれた舌状丘陵部に築かれた全長350mの山城で、大規模な土塁と堀切、縦堀によって、主郭、馬出、西曲輪を構成。大手門、物見台、虎口、桝形、搦手、帯曲輪等も明確に残っている。城の周囲には、三か所の平坦地(南、北、東館)が置かれ、北館からは石垣を配した遺構や家臣団の屋敷跡、東館からは庭園等の一部、井戸、敷石等が発掘調査によって検出。南館からは大規模な空間を聖地していることを確認。当城は自然の地の利を活かした要害の城で、山城を本丸として、直下に居館を配置する構造は、後の岩出山城や仙台城にも取り入れられ、伊達市山城の原点になったものと考えられる。
【館山城跡館山東舘】(説明板概要)
館山城跡は米沢市大字口田沢字長峯と大字館山字城山に所在し、大樽川と小樽川に挟まれた丘陵上に築城された山城と山麓部の館(北館と東館)を合わせた城郭。伊達氏とかかわりの深い城館で、伊達家の正史である「伊達治家記録」の館山城に比定。東館には発掘調査によると堀立柱建物跡や柱穴群、庭園跡の池状遺構、井戸跡、石敷遺構、短刀が埋納された土廣が見つかっている。輸入陶磁器、かららけ、内耳土鍋、瀬戸、美濃産陶器、唐津産陶器、鉄製品等も出土。北館と同時期に機能した山城に伴う根古屋と考えられるが、北館では見つかっていない遺構が検出されており、北館とは性格が異なる場であった可能性がある。中世戦国期の山城と根古屋の構造を考えるうえでも重要な空間である。
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