藩校興譲館跡地記念碑

開拓の歴史以外の石碑等

令和6年(2024)7月6日(土)米沢市旧元細工町

 本日の朝ランの最後に、藩校興譲館跡地の碑を見つけた。教育を重視したということは、やはり上杉鷹山公は名君だった。

【藩校興譲館跡地記念碑】市のホームページから転載
 上杉鷹山は、改革推進のためには政治を担当する武士の教育が重要として、学館(藩校)の設立を進めました。経費節減と、鷹山の「新たに取立(とりた)つるより、廃(すた)れたるを興(おこ)すは、人情いつも平(たいら)なるもの」との意向から、元の学問所を再興する方策がとられました。
 元の学問所は、4代藩主上杉綱憲の時のものです。元禄10年(1697)、元細工町の矢尾板三印(やおいたさんいん)儒医(じゅい)の屋敷内に聖堂と講堂が建てられて講義が行われました。三印の死後は儒学者・片山元傐(かたやまげんこう)が管理しましたが、講義は中断され、代々片山家の屋敷となっていました。
 まず片山家を隣屋敷に転居させ、講堂と聖堂を補修し、塾長の住居、諸生(学生)の住む学寮(寄宿舎)、台所・食堂などを新たに増設し、安永5年(1776)4月17日に落成しました。アメリカ合衆国が独立した年です。
 諸生は20人、上級家臣の子弟が主でしたが、下級家臣の優秀な子弟も選ばれました。平均年齢は25歳程(数え年)でした。3年間寄宿して勉学に励む一方、通学する生徒に素読(そどく)(漢籍(かんせき)の読み方)を教えました。諸生には食事と、年1両の手当も出ました。
 学館の名は、鷹山の師・細井平洲により「興譲館」と命名。「譲を興すとは恭遜(きょうそん)(謙譲)の道を修業させること也」と、政治中枢を担当する上級家臣に恭遜の心を身に付けさせ、民衆を思いやる政治を目指したものです。
 開校後は次第に通学生が増え、寛政8年(1796)に通学生のための校舎・友于堂(ゆううどう)を隣の片山屋敷に増築、片山家は再び隣に転居しました。文化3年(1806)には医学館の好生堂(こうせいどう)も構内に移り、総合的な教育機関に発展しました。幕末頃の最盛期には、通学生が千人程に達したといわれています。
 その後、元治元年(1864)の小森沢大火で興譲館は類焼し、門東町の講武所内(現在のナセBA)に移転新築されました。

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