令和6年(2024)7月20日(土) 大樹町尾田~カムイコタン公園往復 約5km
強烈な二日酔いで、とても暑いが、大樹町の尾田地区車を停めて走る。当初は道道622号線から1002号線を通って1週しようと思ったが、熊が怖いので、公園往復に留める。暑いのでそれがよかった。カムイコタン公園には神社や石碑があった。
【神居古潭神社】(説明板ポイント)
カムイコタンはアイヌ語で、「神々の里」の意で、歴舟川の中流に位置。歴舟川は「宝の川」ともいわれ、砂金採取は寛永年間までさかのぼり、最盛期の明治には数百名の砂金堀で賑わった。(略)社殿は昭和14年に建立された大樹神社の旧本殿を譲り受けた。(略)
公園内にはやたらと「熊注意」の看板があり、怖いため歴舟川をわたる橋で引き返すことにした。公園内には石碑と説明板があった。
【尾田橋施工と遭難記念碑】(説明板概要)
歴舟川・中の川・ヌビナイ川が、ここカムイコタンで合流。明治37年頃から開拓が始まった大全地区と尾田市街の要所として、丸木橋、渡船、仮橋、木橋と通路の確保に懸命な努力をしたが、日方風による融雪大雨による濁流の遭難の歴史でもある。遭難記念碑は昭和10年に大樹町と請負契約した青山組が橋脚工事の最中の8月29日による、日方風と大雨で増水した川は、尾田側の川岸にあった人夫小屋を呑み込み流出。犠牲者は土門勘次、柴田宇之助、岡田栄、竹内一喜、服部重次、安井直三郎であった。犠牲者の霊を慰める為、左岸に石碑が建立され、以後毎年命日には追悼法要が行われていた。昭和29年の大雨により石碑は流出不明となったが、平成10年8月地元の工藤武夫さんが発見s慣れ、平成11年8月に町の協力を得て引き上げ、農村公園内に安置できた。歴舟川の麓で開拓された先人達の苦労と水難の歴史を忘れないため、今後もこの記念碑を大切に保存していくべきと思います。
遭難碑の隣にも石碑があった。
【川三つ 合流の音 秋高し 音路】
裏面には「平成元年10月4日俳誌伯林主宰 若葉岬各同人中嶋音路師 この地に至り詠む其の一句である(以下略)」
尾田の市街地に戻り、尾田神社にお参りすると記念碑があった。
【五十年記念碑】
上記のとおり刻まれ、「田中敏文書」「昭和30年10月?日尾田地区建立」と刻まれていた。碑文等はなかった。
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