生田緑地(桝形山)

古墳・ストーンサークル・墓所

平成23年(2011)8月20日(土)10:15分頃~12時頃
 中野島駅近くの人家にお水取りに行きがてら、登戸駅から生田緑地、低山の枡形山に登り、中野島まで走りました。
 登戸駅。二力領水。

【生田長者穴横穴墓群】
中世の城跡として知られている枡形(ますがた)山から、尾根を伝って北へ行ったところに飯室(いいむろ)山があります。生田長者穴横穴墓群は、この飯室山の北麓に築かれた横穴墓群です。江戸時代後期の『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』でも紹介されているところをみると、その存在は古くから知られていたようです。
 昭和42年(1967)、この地に宅地が造成されることになったため、川崎市教育委員会では2度にわたる発掘調査を実施しました。その結果、3つの小さな開析谷に、合計32基にも及ぶ横穴墓が群集していることがわかりました。これらの横穴墓は、飯室層と呼ばれる泥岩(でいがん)の地層に掘り込まれています。それぞれの横穴墓は、遺骸を安置する玄室と玄室に通じる墓道である羨道(せんどう)からできています。なかには、羨道の前で墓前祭祀(さいし)を行った前庭部が残っているものもありました。
 これらは奥行5m、幅3mほどの規模で、平面的には羽子板のような形をしたものが多くみられます。
 この調査では、被葬者の骨や歯などのほか、遺骸に添えられた金環・管玉(くだたま)・小玉・銅釧(どうくしろ)・鉄鏃などの副葬品が、おもに玄室から出土しました。長者穴横穴墓群は、こうした出土遺物や横穴墓の形態などから、7世紀中頃から後半にかけて築造された、集団の家族墓や一族の墓ではないかと考えられます。
 川崎市内には、生田長者穴横穴墓群のほか、中原区井田や高津区津田山など、多摩川・矢上川・平瀬川の流域に、横穴墓が濃密に分布しています。多摩川中・下流域の東京都大田区や世田谷区も含めると、南関東地方でも屈指の横穴墓密集地域を形成していることになります。

 生田緑地の頂上は桝形山。ここはお城跡でもあるようだ。
【桝形山83.9m・桝形城跡】
  小田急線向ケ丘遊園駅の西南約800mの丘陵地に枡形(ますがた)山があります。山頂は東西130m、南北80mの平坦地で眺望もよく、四方は容易に寄りつけないような断崖で囲まれた要害の地をなしています。おそらく枡形山という地名は、こうした地形が枡の形に似ていることから名付けられたのでしょう。
 枡形山は枡形城跡とも呼ばれており、かつてはここが城であったことが文献からもうかがえます。
 古くは、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃、稲毛三郎重成がここ枡形山を城としたと、江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿』は伝えています。稲毛三郎重成は北条政子の妹を妻に迎え、源頼朝の重臣として活躍した人物です。その後、室町時代の永正元年(1504)には、山内上杉氏の討伐を狙っていた北条早雲が軍勢を進めて枡形城に入りました。
 そして、扇谷上杉朝良を助けて、山内上杉顕定の軍と多摩川の河原で戦い、激戦の末、山内上杉軍を破ったと『宗長手記』や『松蔭私語』では記しています。また、先の『新編武蔵風土記稿』では、戦国時代の永禄12年(1569)、甲斐(かい)の武将・武田信玄が小田原へ出兵してきた時、この土地の豪族であった横山式部少輔弘成は、枡形山に土塁を築いて後北条氏のために守りを固めたと伝えています。
 こうしてみると、この枡形山は天然の要害をなした山城として、鎌倉時代から戦国時代の武将たちの目にとまるところとなり、たびたび利用されてきたものと考えられます。
 現在、枡形城跡は生田緑地の中に公園として保存されています。山頂の広場には碑が建てられ、郷土の生んだ文学者・伊藤葦天の句が刻まれてます。
 「馬場あとも やかたあとも 秋の風」

 戸隠不動尊跡を通り、ナシ園を通り、中野島駅に戻る。

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