大山街道(長津田~海老名)

古い建物

平成23年(2011)6月5日(日)
0841 長津田
0939 鶴間
1032 さがみ野
1115 海老名

 久々に土日フルに休める。当初は山に行こうと思ったが、寝坊してしまい、またしても近郊のランニングの旅、大山街道の続きにする。結果として、今日は山は雷が危ないので、結果オーライ。
 長津田駅近くの大石神社に常夜灯がある。大石神社には大きな木が2本。在原業平が祭られているという。

【大石社】神奈川県横浜市緑区長津田町2322
 創立年代は不詳ですが、新編武蔵風土記稿に「元長津田村大石権現社と称し、在原業平朝臣を祀ったものと伝う。」との記載があります。 ご神体は石となります。大正12年5月神明社、稲荷社を合祀、同年9月関東大震災により本殿崩壊したので宮内省より御用材を賜わり再建して今に至ります。

 去年暑いときに来たフィールドアスレチックつくし野コース。

【大山阿夫利神社御分霊社】神奈川県大和市下鶴間2233
 赤い鳥居の奥に大山阿夫利神社御分霊社。南朝忠臣新田氏縁の家、高下宗家だという。豊臣秀吉の神社もあった。

【下鶴間ふるさと館】神奈川県大和市下鶴間2359-5
下鶴間ふるさと館には、市指定重要文化財の旧小倉家住宅の母屋と土蔵が復原されています。母屋は安政3年(1856)に建築されたもので、宿場の商家建築として県内でも数少ない建物です。土蔵は前身建物の古材を用いて大正7年(1918)に再建された商家の付属建築で、一般に袖蔵といわれています。旧小倉家住宅母屋は、東海道の脇街道である「矢倉沢往還」の下鶴間宿に残された宿場町時代の唯一の商家建築で、神奈川県下においても江戸時代の建築遺構はほとんどみられません。
 母屋は街道に面して建ち、間取りは街道から見て、左手に広い土間があり、土間沿いの街道寄りに床高の低い12.5畳の「みせ」、奥に10畳の「ざしき」、右手前方寄りに8畳の「なんど」、その奥に床と棚を持つ8畳の「おくざしき」があります。屋根は建築当時は茅葺きを軒先まで葺き下ろした大きな入母屋造りの屋根でした。建築年代については、棟札など直接的に示す資料はありませんが、建築調査の際見つかった「ざしき」床板の裏側に書かれた落書き中に「安政三年」の年紀があり、また、建築の構造手法からみてもこの時期の建築とみてさしつかえないようです。
 母屋の姿は、横浜居留外国人向け英字新聞「ザ・ファーイースト」明治4年10月4日号に掲載された下鶴間宿の写真の中に見られ、当時の様子を窺い知ることができます。
旧小倉家住宅母屋の座敷床板の裏側には、文字や絵が二重三重にかかれていました。その中には船の絵や「豆州賀茂郡仁科庄 石田利三良」の文字、さらに「安政三年」の年紀もかかれていました。これらの文字や絵をかき残したのは、伊豆出身の石田利三良ではないかと考えられています。

 農村風景的な道を通る。大山街道碑、赤坂道標、不動明王座像。

【国分寺跡】神奈川県海老名市国分南1-8-35
 史跡相模国分寺跡は、海老名駅の東側約500メートルの台地上にあります。周囲は開発によって、宅地化されていますが、跡地は歴史公園として整備、公開され市民をはじめ来訪者の憩いの場となっています。
また、一部伽藍の基壇や平面形が復元され、当時の様子をうかがい知ることができます。
尼寺跡は、国分寺の北側約500メートルのところにあります。尼寺の周囲も宅地が迫っていますが、金堂跡周辺は地域の広場として地元をはじめ、市民の方々に利用されています。発掘調査で、伽藍の配置、塔跡、金堂跡、講堂跡、中門・回廊跡、僧房跡がわかったそうだ。全国に国分寺が造られる経緯となったのは、天平13(741)年の聖武天皇の詔によります。相模国分寺でもこの詔を受けて建立されたといえ、発掘調査の所見から、8世紀中頃には創建されていたと考えられます。

 現在の国分寺を訪問し、海老名駅前から帰る。

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