湯坂道・浅間山・湯坂城跡

その他旧街道・旧道

平成23年(2011)5月3日(火)
1101 湯坂道入口
1123 浅間山
1220 箱根湯本

 昨日は、延期になっていた、我がグループの歓送迎会だった。偉い人方も来てたいそう盛り上がったが、日本酒を飲み過ぎて、今日は寝坊。8時半に起きてしまった。せっかくの休日なのにもったいない。今日は時間が限られるので、またしても近場でいっていない箱根の湯坂道を走ることに。
 東海道線で小田原まで行き、そこから元箱根行きのバスに乗り、湯坂道入り口まで行くことに。案の定、非常に混んでいて、目的のバス停まで1時間かかる。
 なお、湯坂道は、旧東海道よりも以前に使われていた平安時代の古道である。ガイドブックによると延暦21年(802年)の富士山の大噴火で、それまでえ使われていた足柄古道が使えなくなったため、こちらが開通したという。
 湯坂道は、桜と椿が咲く、日当たりの良い稜線の道。走り始めてすぐ、鷹ノ巣城城あとに着く。ネットによると、天正18年(1590)の北条征伐の際に秀吉軍が通過しているとのこと。
 

【鷹巣城】【浅間山802m】
 豊臣秀吉の侵攻に備えて北条氏が箱根に構えた城砦群の一つとされているが、その正確な場所や歴史等は詳らかになってはいない。天正18年(1590)3月の山中城の陥落で、鷹巣山城に籠もる城兵は撤退、放棄された鷹巣山城には徳川家康が入城し陣城に取り立てたと伝えられている。のち徳川氏は今井陣場(小田原市寿町)に移るが、“神君”家康公が陣城としたことで後々の世まで、この城の名が伝えられることになった。湯坂路ハイキングコースが通る鷹巣山の山頂部が城跡とされるも、ここに城の遺構はないと言う。この鷹巣山からさらに湯坂路を進むと浅間山に至るが、ここを鷹巣山城と唱える説もある。浅間山はかつては前鷹ノ巣山とも呼ばれていたことから、鷹巣山城の候補地となったワケだ。しかし、ここにも城郭遺構は見当たらず、湯坂路の人口地形が見られる程度とされている。結局、鷹巣山城の場所を特定するには至っておらず、その姿は深い霧に包まれたままである。

【湯坂城跡】何もないが、恐らく箱根湯本を見おろす所なので、城が造られたのだろう。
 駿河国駿東郡の大身領主大森頼春は、応永二十三年(1416)の上杉禅秀の乱での功績に
より、箱根・足柄を越えて酒匂川にいたる一帯の支配権を与えられた。湯坂城はこれ以降に
大森氏によって築かれたとみられているが、確証はない。
 15世紀末に大森氏が北条早雲(伊勢宗瑞)に滅ぼされると、湯坂城も北条氏の手に帰したと推測される。湯坂城の歴史は定かでないが、天正十八年(1590)の小田原の役で北条氏が滅亡するまで存続していたものと考えられている。

 箱根湯本の1号線の入り口に着いた。箱根で鯛ラーメンを食べて、和泉というところでお風呂に入り帰りました。

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