菅原神社・伝曽我祐信宝篋印塔・曽我神社・城前寺・二宮尊徳遺髪塚

その他遺跡

平成23年(2011)3月5日(土)
 国府津駅 10時頃→菅原神社→西山農道(ミカン畑)→五国峠→風外窟→→六本松→伝曽我祐信宝篋印塔→澄禅窟→宗我神社→城前寺→二宮尊徳遺髪塚→満江御前の墓→国府津駅 12時半頃

 昨日も職場がピリピリしていて、国会待機もあり残業していたが、9時で脱出できて、知り合いのO氏と飲みに行き、結局終電間際。しかし、土曜日なので気持ちが晴れやか。8時に起きて、天気も快晴なので、小田原の曽我の里当たりを走ることに。当初はその近辺の曽我山を登ろうと思ったが、国府津駅で曽我の里のガイドブックがあったので、予定変更し、歴史の名所を走って回ることに。この辺は、鎌倉時代に日本三大仇討ちで有名な曾我兄弟が生まれたところで、それに関する名所が多い。少し高台に登ると、富士山、小田原の町並み、箱根の山並み、伊豆半島、丹沢の山々も見えて、凄い景色のいいところだ。ここは季候も良いので古来から人が住んでいたのであろう。

 国府津駅を出発。明治20年の創業。

 菅原神社、わらべうた「とおりゃんせ」の発祥の地だそうだ。農道を登ると富士山、大山、丹沢山塊が見えてきた。ずっと、細い舗装が続く。

【風外窟】
風外禅師と穴居跡。田島地区には横穴古墳群が四カ所ある。この横穴は古墳時代の末期(7世紀頃)の墓跡である。風外禅師は元和八年(1622)頃、この巌窟に穴居し、達磨、布袋画を好んで描いた。洞の中に囲炉裏跡がある。この地方に残っている達磨図は「五竹ダルマ」といわれた。

 小田原の街と海。富士山が綺麗だ。昔の人もこの風景を見ていた。しだれ桜。梅畑の横の農道を通る。

【伝曽我祐信宝篋印塔】曽我谷津1159-イ-2
 関東形式と呼ばれる特徴を備えた大型の宝篋印塔です。塔身(とうしん)は後補の可能性も指摘され、相輪(そうりん)は上部が欠損しているものの、反花座(かえりばなざ) ・基礎・塔身・笠(かさ)・相輪という宝篋印塔の各部位が揃った石塔です。現在、この塔が立地するのは曽我丘陵の中腹ですが、六本松峠を西に下った尾根先に該当します。所在地が古道に近く、尾根先で眺望に優れた景勝地であることを踏まえると石塔の立地としては適地であり、当初からこの付近に所在していた可能性が高いと考えられています。

 澄禅窟と曽我神社。
【曽我神社】小田原市 曽我谷津386
 昔、先づは此の曽我地方の先住民族が祈願の的として神仏の区別無く「小澤大明神」を崇拝して現在の地に祀った。長元元年(1028)、宗我播磨守保慶が祖先宗我都比古命の御霊を分霊し当所に下り宗我都比古神社の神号を請い、併せて武内宿祢命をも祀り、社を創建し、900年前頃、曽我祐信に依って神社として今の祭神(小澤大明神、宗我都比古、宗我都比女)を再興し、明治初年の神仏分離に依って宗我都比古、宗我都比女を主祭神にして、永く当地曽我郷の総鎮守産土神として祭祀される。北条、稲葉、大久保の小田原藩主に相次いで尊崇され、現在の社殿は藩主稲葉氏の造営から初まり、再三の震災、火災に逢い、其の都度再建、補修されて、今日に至った。

 城前寺と大山道説明板。
【城前寺】神奈川県小田原市曽我谷津592
 城前寺の本堂の裏手には曽我十郎・五郎兄弟、養父曽我太郎祐信、実母満江御前の墓と伝える4基の五輪塔が立っています。また、境内には、兄の十郎が恋人である虎御前をしのび、腰を掛け笛を鳴らしたといわれる忍石(※)があります。

【二宮尊徳遺髪塚】神奈川県小田原市曽我別所
 1840(天保11年)、尊徳は家運が傾きかけていた川久保家を再興するため、市太郎、民次郎、常次郎の三人の子息に無利子の報徳金を貸し付け、復興の指導を行った。その結果、もっとも成果を上げた民次郎が川久保家を継ぐこととなったという。民次郎は、永らく尊徳に仕え、尊徳が亡くなるとその遺髪を曽我へ持ち帰っていた。この遺髪塚は、民次郎の遺言により、孫の奥三郎が昭和13年に建てたもの。尊徳は、1856年(安政3年)10月20日、日光山領の復興中に下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所で亡くなり、同地にある如来寺に葬られた。小田原市栢山の善栄寺には、実弟三郎左衛門(幼名友吉)が故郷に持ち帰った遺髪と遺歯が葬られている。 

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