中原街道1

中原街道

平成23年(2011)9月4日(日)7:30~10時頃 自転車の旅
虎ノ門~三田~高輪~五反田~戸越~旗の台~洗足池~雪が谷~沼部~丸子橋~小杉御殿~武蔵中原

  今週は、土曜日が朝帰りだったが、2日の休みを頂いた。昨日は家族で焼き肉に行ってしこたま飲んでしまい、寝不足と飲み過ぎで8時に寝た。今日は5時に目が覚めたので、朝早くに行動開始。また、街道の旅が増えてしまうが、中原街道の旅に着手。(中原街道の歴史をネットからゲット)

 中原街道は、東京(江戸城)と平塚市中原とを結ぶほぼ直線の道路で、古代から中世にかけての道ではないかと言われています。小田原城の後北条氏 が軍用道として使っていたものらしく、「相州道」とも呼ばれていました。天正18年(1590)徳川家康が関東移封で江戸城へ入城する際利用したといわれています。家康は、慶長元年(1596)中原御殿を設けて、鷹狩や江戸と駿府との往来時にしばしばこの街道を用いています。この街道は、別名「御酢街道」と呼ばれています。江戸のはじめ、中原代官の一人成瀬五左衛門重治が中原で作られていた食酢を幕府に献上して以来、毎年献上する際にこの街道を往還したため、この名が起こったとのことです。ほかにも「猿町街道」、「江戸間道」、「こやし街道」などとも呼ばれていたようです。

 当初起点は江戸城桜田門でしたが、江戸城の拡張に伴い虎ノ門を起点とするようになりました。また、終点も平塚市中原の中原御殿でしたが、東海道の整備に伴い、現在の大磯町化粧坂一里塚に変わっていきました。 虎ノ門から中原まで約60kmの行程です。順路は、虎ノ門→芝→三田→高輪→大崎→中延→南千束→小杉御殿→佐江戸→瀬谷宿→用田→寒川町一之宮→田村の宿→平塚市四之宮→中原御殿→平塚宿京方見付→大磯町化粧坂一里塚です。

 ブロンプトンに鞄のストラップを付けて肩で携帯できるようになった。大部楽だ。新橋の機関車とブロンプトン。

【飯倉の西久保八幡神社】
縁起の略。寛弘年中(1004~12)に、源頼信(多田満仲の三男)が、石清水八幡宮の神霊を請じて、霞ヶ関のあたり(榎坂とも)に創建したという。太田道灌の江戸城築城に際し(築城は長禄元年・1457)、現在地に遷された(諸説あり慶長5年とも)。徳川秀忠(徳川二代将軍)正室の崇源院(諱は「江(ごう)」・「お江」・浅井長政とお市の方の三女・家光の生母)は、慶長5年(1600)、家康・秀忠の関ヶ原の戦での戦勝と安全を祈願し、その報賽として社殿建立の遺志を残しており、家光公御代寛永11年(1634)、社殿が造営され、同時に御神体の木像(八幡宮座像・仲哀天皇座像・神功皇后座像)と明王像(不動明王立像・愛染明王座像)も奉納された。

 虎ノ門駅、文部科学省、霞が関ビル。飯倉交差点。東京プリンスホテルと芝公園。

 三田虎屋本店、高輪消防署。

 高輪警察署の隣の高野山東京別院。
【高野山東京別院】
 慶長年間、高野山の宝門・寿門の学侶方の在番所として開創され、延宝元年(1673年)「高野山江戸在番所高野寺」として建立されました。 幕府と宗務全般の交渉、および幕府の諸通達を全国の古儀真言寺院に達する触頭(ふれがしら)の責務を担いました。 高野山から重役方が交代で参勤し、学侶教修の道場、大師信仰の実践の場として重要な役割を果たしました。明治に入って在番所の廃止に伴い、葛飾牛島の長壽寺の名蹟を移して寺蹟を継承し、昭和2年「高野山東京別院」と改称しました。

 高輪台で国道1号線に出る。都心らしくビルの谷間に雉子神社。
【雉子神社】
 御社号は古くは荏原宮と云い、文明年中には大鳥明神、山神の社とも称す。慶長年間に徳川三代将軍家光公がこの地に鷹狩りに来られた時、一羽の白雉がこの社地に飛び入ったのを追って社前に詣でられ、まことに奇瑞であると、「以後雉子宮と称すべし」とのお言葉があってから、神威愈々赫々として江戸社寺名所にその名を連ねた。 

 五反田駅前から中原街道の看板を通り、戸越地蔵、子別れ地蔵、中原街道供養塔群。

 昭和医大の商店街を通り洗足池に。

 勝海舟とその室の墓。その隣は西郷南洲(隆盛)の神社。

 池から駅方面を眺める。八幡神社ではお祭り準備。

 福山雅治の桜坂、丸子橋。多摩川から武蔵小杉方面を望む。

 徳川将軍家小杉屋敷跡とその奥のお寺。二カ領用水。

 今日のゴールは武蔵中原駅。

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