平成22年(2010)11月23日(火)勤労感謝の日
1002 入生田駅
1113 石垣山(262m)
1200 小田原城
今日は嬉しい祝日である。近場の小田原近くに散策へ。かねてから行こうと思っていた豊臣秀吉の石垣山の一夜城跡である。
まず、箱根登山線の入生田駅で降りて紹太寺に行く。奥の石段を登り、ミカン畑の中に稲葉一族の墓、その中に春日局の墓がある。
【紹太寺】神奈川県小田原市入生田303
本寺は、江戸時代初期の小田原藩主だった稲葉氏一族の菩提寺です。当初は、小田原城下山角町にありましたが、第二代稲葉美濃守正則が寛文九年(1669)、幽邃境として知られた現在地に移建し、山寺号も「長興山紹太寺」と称し、父母と祖母春日局の霊をとむらいました。
次に石垣山城に向かう。川を渡ってミカン畑の中の農道を登る。途中工事していていたが、歩道が通行可能であった。
石垣山城跡に着く。石段と石垣が城であったことを思わせる。天守台跡。
石垣山から小田原市街などを望む。豊臣秀吉の気分だ。
【石垣山一夜城】
石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き志気を失ったためと言われています。しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。秀吉は、この城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されています。
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