田園調布・亀甲山古墳

古墳・ストーンサークル・墓所

平成22年(2010)9月25日(土) 0930自由ヶ丘駅~田園調布~多摩川~二子玉川

 ゆるゆるランニング東京マップに出ていた、おしゃれな町、自由が丘から田園調布、多摩川ベリを走り、二子玉川まで行きました。台風により小雨でした。
 田園調布、立派な家と外車が多い。田園調布駅前に田園調布の由来碑があった。

【田園調布の由来】
 この広場を中心とするおよそ80万平方メートルの地域は、明治文化の先覚者渋沢栄一翁が我が国将来臣民生活の改善の為に、当時暫らく英米に現れ始めた「田園都市」に着目して都会と田園との長所を兼ねた模範的住宅地を実現させようとして念願して既にあらゆる公的関係から退かれた後であるにも拘わらず自ら老躯を運んで土地を選定されたところであります。
 その目的の為に大正7年田園都市株式会社が創設されて翁の理想に共鳴する人々に土地の分譲を行い、わが国最初の近代的大計画都市が実現しました。そして居住者による社団法人が生まれました。
 この都市全体を一つの公園のように明るく美しいものにする為、建築その他に関し色々な申し合わせを固く守り殊に道路との境界には一切土塀板塀などを設けず花垣か生垣の低いものの程度とすることなどを厳格に実行しました。その協力の結果この明るい住宅地と美しい散策地が生まれたのであります。
 大正11年には同社の姉妹会社として目黒蒲田電鉄が創立され大正12年3月当時荏原郡調布村であった当地に調布という駅が設けられ間もなく田園調布という駅名に改められました。その後この地区が東京市に編入さらた際町名改区が行われて当都市のみならず周辺の町村もひろく含めて田園調布と呼ぶこととなりました。その折当初の地域は頭初の田園都市の約3分の2となり、他の3分の1は世田谷区玉川田園調布となりました。
 ここに明るく住む方々もここを来し訪れる方々も渋沢翁の理想が永くここに栄えていくようにこの田園調布を愛護してくださるようお願いいたします。昭和34年秋。 

【亀甲山古墳】大田区田園調布一丁目63番1号 
 亀甲山古墳。中には入れなかった。以下、ネット。
 この古墳は、南武蔵を代表する多摩川流域最大の前方後円墳で、全長107メートルあまりあります。近年の多摩川流域の古墳研究から、4世紀後半の築造と推定されます。

 二子玉川駅から帰る。

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