新ひだか町東静内の史跡

発祥の地

令和6年(2024)9月16日(月・祝) 新ひだか町東静内

 札幌から十勝管内に帰るのに、日高管内経由で帰ることにした。今日はレポートできていなかった、新ひだか町東静内の史跡をレポートする。ここの地は、淡路島の稲田家が開拓した地である。映画「北の零年」でも有名である。
静内会所跡は一番西側のコンビニの近くにあった。

【静内会所跡】
 享和二年(1802)幕府は蝦夷地を直轄支配し運上屋を会所と改め行政機能をもたせ付属施設も拡充させた
かつて春立(元静内)にあった静内会所は安政五年(1858)東静内に移転され明治期まで姿をとどめた
平成二年三月建立 静内町

【開基百二十年記念碑】
 上記のとおり刻まれ、その下に「平成二年四月 静内町長 (読み取れず)。裏面の写真を撮り忘れたが隣に碑文の掲示板があった。「東静内には、古くから先住の人々が多数居住し、永い歴史を大自然の恵みを受けながら困難な生活を営んできた。そこへ、淡路洲本城代家老、稲田九郎兵衛邦植とその家臣は、政府より静内郡の移住と開拓を命ぜられ、明治4年2月47名の先発隊、同年5月には500余名の本体が捫別(現在東静内)に集結し、開拓の鍬を振るい、幾多の困難を克服して、今日の静内町の基礎を築いたのである。今ここに、開基120周年の記念すべき年を迎え、幾多先人の足跡を偲び、功績をたたえて記念碑を建立する。平成2年4月 東静内連合自治体」

【金乃北辰神社】【救難共没義魂之碑】
上記については特に碑文や説明文等はない。

【益習館跡】
 明治四年(一八七一)、静内に移住した旧稲田家臣は、この地にあった増上寺末寺の頓成寺を仮校舎として子弟の教育を開始した。校名は益習館。郷里淡路にあった稲田家の学問所の名をそのまま用いたのである。校長には荒木重雄、教師には洲本の益習館助教であった三吉笑吾をはじめ数名の者があたった。明治五年、目名に目名教育所と改称した。これが高静小学校の前身であり、北海道の学校教育の先駆けでもある。平成二年三月建立 静内町

 なお、同地にある東静内会館は、30年ほど前、ここで極真空手の合宿が行われ参加した地である。雑魚寝、シャワー等はなし、食事はカレーライスで全然足りず、途中で菓子パンがでてきたような気がする。拳立ては100回以上やらされて筋肉痛になった記憶がある。今思い出すと酷い合宿だった。

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