札幌市西区中の沢 中の沢神社の碑など
令和3年(2021)9月11日(土)7.5km 1時間18分
今月の吉方である南方の南区中の沢をはじめて走る。大型ショッピングセンターに車を停めて、坂道を登っていく。いつも通っている交差点にさしかかる。右に行くと盤渓、左に行くと南の沢の交差点であるが、ここをまっすぐに進む。住宅地はすぐに終わり、中の沢川の右側を進むと森林帯に入ってきた。熊出没注意の看板がやたらあり、レンガ造りの建物が天瑞寺だった。
しばらく進み左折して、中の沢川を渡り右に行くと道は続くが、人家もなくなり熊が出そうなので断念して引き返す。住宅地に入る前に牧場があり背後に草地が広がっていた。こんな大都会の近くに牧場があったとは驚きだ。
市街地に入り、中の沢会館と中の沢神社を訪問。この辺も歴史がある。五ノ沢とよばれていたそうだ。お参りし、駐車している車に引き返す。
中の沢会館横の
【中の沢土地区画整理組合説明板】抜粋
この地、中の沢はかつて「五号ノ沢」と呼ばれ、昭和〇年町名が変更され「中の沢」となるまでは、川沿(旧大通)、北ノ沢(四号ノ沢)、南の沢(八号ノ沢)とともに、「八垂別」と総称されていた。八垂別とはアイヌ語で「淵の川」という意味から来ている。明治9年に設置された山鼻屯田兵の公有財産として札幌本府建設の建築用材の供給地として木こりが出入りする程度であった。
しかし、明治25年(1892)には、富山県より瀬川忠二郎氏が新天地を夢見て入植し、同28年(1895)に山鼻屯田兵、森万蔵氏が給与地に通い開墾に当たった。
その頃、この地は原始林がうっそうと繁る昼なお暗い人跡未踏の地で開墾は艱難辛苦を極めた。大正末期までに43戸が入植したが、山火事や水害などの自然災害が多発し、離脱、転出者が相次いだ。
大正末期以降は残留し、開拓に成功した25戸が中心となって蔬菜を中心とした農産物の一大産地として発展し、近年までおよんだ。しかし、札幌市の急速な発展に伴って、隣接地に市街化の波が押し寄せるなどの時代変化の状況から地区内に権利を持つ有志が土地区画整理事業による街づくりを掲げ、生活基盤の転換を決断した。
地権者が協議を重ね、札幌市に市街地区域の編入を要請するとともに、昭和63年8月1日札幌市中の沢土地区画整理組合が設立し、5年余の歳月を経て、念願の理想の郷「藻岩グリーンタウン」の整備に成功した。(以下略)
【中の沢神社】
明治28年(1895)に高台(現川沿二条六丁目1758番地11)に一際聳える大木を「山の神」の依木(神木)と奉嗣。五号ノ沢の守護神となしたのが創始とされている。
この神社の御祭神は、「山の神」、「豊受大神」、「猿田彦命」の三神。中ノ沢神社の社殿の右手には2基の石碑が置かれていて、そのうち社殿の手前にあるのが「山の神社」碑。こじんまりとした自然石でできた碑面には、「八垂別五号沢 山の神社 講中」と刻まれている。さらに碑の背面には、「明治三十二年十二月十二日」と刻まれている。
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