小諸・上田・大蔵京古墳・軽井沢

プール

平成22年6月19日(土) 横浜→小諸→上田→軽井沢

 こちらに来て初めて家族でレンタカーを借りて、長野に旅行。道はよくわからないが、カーナビを頼りに行く。横須賀道路から湾岸線に抜けて首都高速、関越自動車道、上信越自動車道を行く。  
 東京モノレールが見える。藤岡PAはすごい人。高崎を過ぎると変な形の山。小諸で墓参りのあと、上田市のアクアプラザ上田へ。

 上田市から軽井沢に向かう途中「大蔵京古墳」があり立ち寄る。
【大蔵京古墳】長野県上田市秋和
 大蔵京古墳は、秋和地区の北側にそびえる虚空蔵山〔こくぞうさん〕南麓の見晴らしの良い傾斜面に、自然の地形を利用して造られています。古墳の形は方墳〔ほうふん〕とされていますが、かつて双子塚〔ふたごづか〕とも呼ばれたことがあり、前方後円墳とみられた時期もありました。これは東側にある古墳状の盛土部分を含めてのものであったと思いますが、現在では西側にある墳丘〔ふんきゅう〕のみが古墳とされています。
 古墳の東隣には、江戸時代に神社の社殿が造られたり、古墳の頂部には日露戦争戦没者忠魂碑などが建てられ、周辺は多少変形していますが、いずれも墳形を大きく変えていないため、墳丘の保存状態は比較的良好です。 
 墳丘の四辺は東西南北の方位にほぼ正確に一致していて、計画的に造られた古墳と思われますが、その規模は東辺32m、西辺34m、南辺35m、北辺33.5mの四辺形になっています。また、墳頂部は各辺8mあり、高さは約6mの比較的大きな方墳といえます。
 古墳周辺の南側以外のところには、わずかに平らなところがありますが、この部分に溝を造った跡はみられず、その立地から古墳の回りに周溝〔しゅうこう〕や周堤〔しゅうてい〕などの施設は、初めからなかったものと考えられます。
 かつて墳丘の南斜面から四点の土師器片〔はじきへん〕が表面採集されましたが、このうち二点は有段口縁〔ゆうだんこうえん〕(縁に段がついている形、図参照)をもつ大型の壷の一部とみられます。この土器は、表面の整形方法や赤く塗ったりしているなどの特徴から、およそ四世紀終末から五世紀前半頃の資料と推定されています。そして古墳の造られた年代も、この時期ではないかと考えられています。
 今まで、当地方で最も大きい方墳として知られる東部町の中曽根親王塚古墳(5世紀後半)や、同町の塚原二号・五号墳(五世紀初頭)が古いとみられていましたが、それより、さらに古い時期の古墳と位置づけられています。上田盆地では、今のところ最も古い古墳と考えられます。

  宿は、中軽井沢の「パイプのけむり」中庭があって、なかなかよいホテル。ご飯の時間まで、自転車を借りて軽井沢を散策。テニスコートやしゃれたペンション、レストランなどが続く。

【発地地蔵尊】長野県北佐久郡軽井沢町 発地下原1130-200
  関所を通らずに行く、中山道の裏道が「女街道」です。江戸時代碓氷峠などの関所では「入鉄砲に出女」と称して江戸からの女性に対しては特に厳しかったので、これを逃れるため、裏街道「女街道」ができた。発地は、「女街道」の丁度、中間点にあたる。旅人の道中の安全を見守っていた路傍の地蔵尊は、現在、石仏群として集められている。

 そして、この地は浅間山荘事件があったところだ。
【治安の礎(浅間山荘事件記念碑)】
 群馬県下の山岳アジトにおいて陰惨な大量リンチ殺人を犯した連合赤軍の幹部ら5名が、昭和47年2月19日、ここ南軽井沢「あさま山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に、包囲の警察部隊に銃撃をもって抵抗するというわが国犯罪史上まれにみる凶悪な事件を引き起こした。
警察は、人質の安全救出を最高目標に、厳寒のなか、あらゆる困難を克服しつつ、2月28日219時間目に人質を無事救出し、犯人全員を逮捕した。
この警備活動にあたって、警視庁から来援の第二機動隊長・内田尚孝警視長、持科車両隊指揮官・高見繁光警視正が殉職され、また、多数の警察官が重軽傷を負った。殉職の両氏は、激しい銃火の中にあって、あさま山荘に突入する隊員を陣頭指揮中凶弾に倒れ、白雪を鮮血に染めながら壮烈な最期を遂げ、人質救出と犯人逮捕の礎となられた。
この碑は、軽井沢町民が相図り、両氏の功績を永く後世に伝え、再びこのような事件が起こることのないよう祈念し、建立したものである。

 プリンス通、ショッピングモールを経て、夕食はガラス室の中でバイキング。飲みすぎた。

コメント