国見山・国見チャシ

城郭・チャシ

令和6年(2024)12月7日(土)河東郡音更町下音更北6線西19
音更町道の駅~鈴蘭会館~国見山・国見チャシ~然別 13.2km 1時間52分

 鈴蘭会館の碑を後にして国見山(127.9m)に向かう。国見山は令和4年5月に訪問していた。https://torushimohori.sakura.ne.jp/wp/220505kunimi/
 西に向かうのだが強烈な向かい風、晴れているが気温が低いので体温が奪われていく。それでも今日はここに向かうと決めたし、数キロなので頑張って走る。
 前回の訪問は東側の登山口がない方から迷って藪漕ぎで登ったが、今回は西側の正式な登山口から登る。きちんと遊歩道が整備されていて、すぐに展望台に到着する。晴れているが樹木があるので展望はあまりきかない。展望台を後にして、チャシの方に向かう。チャシはなぜか展望台の方になく、西の方に突き出たこぶ状の小山にあったのを思い出した。チャシが16~18世紀に建造されたと聞いているが、当時和人または、日高アイヌとの抗争に備え、見張り場のために西の方に築造したものと推察する。
 丘先式で、人工の壕の向こうに直径30mほどの円形の踊り場があった。典型的なチャシである。樹幹の向こうに芽室方面や日高山脈が見える。

【国見山チャシ】
・城 跡 名:国見山チャシ
・所 在 地:芽室町西士狩
・創建年代:不明
・創 建 者:不明
・形  態:丘先式
・主な遺構:空壕(半円状1条)
・大きさ:直径30m位?
・標高:120m程度
・説明板:なし。
・伝承:なし。

 駐車場に降りると、国見山自然観察教育林コース案内図に「国見山のあらまし」があったので転載する。ここはおそらく晩成社の渡辺勝が登ったのだろう。

【国見山のあらまし】
 むかし国見山がオソルシ山と言われていた時代、この一帯は十勝川の恵みを受け、アイヌコタンの人々は豊かな生活を送っていました。その豊かな恵みをねらって他地域のアイヌから襲われることが多く、ここの人々はオソルシ山に砦(チャシ)をつくり見張っていました。その後、時は流れ、明治時代に入植した晩成社の一人、渡辺勝が、展望のきく場所として「国見山」と名付けたと言われています。

 国見山をあとにして、道道214号線を北上する。これは北上というより北西に向かうので、もろに向かい風で体力も落ちてきたさらにきつかったが、なんとか踏ん張って然別地区に到着。会館の周りには何もなく、その上の神社には英霊碑があった。そして道の駅に戻る道に右折すると追い風、然別児童館のまえは小学校跡で巨大な石碑があったが、閉校碑なのでレポートはしない。帰りの数キロは追い風で楽だった。

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