島判官紀功碑

石碑・銅像・胸像(歴史上の人物)

令和7年(2025)4月15日(火) 札幌市中央区宮が丘(円山公園)

 円山公園まで早朝ラン。円山公園の南側に巨大な石碑があった。8メートルだそう。北海道開拓の嚆矢である島義勇の功績を顕彰しているそうだ。

【島判官紀功碑】
 巨大な石碑の上部に右から難しい漢字で上記のとおり刻まれていた。その下にはびっちりと次のとおり漢文が刻まれていた。
正三位侯爵鍋島直映篆額
明治中興朝廷議蝦夷地開拓二年七月置開拓使挙島義勇判官八月改蝦夷稻北海道
九月君尺尺天顔伏奉事宣言奉鎮道神靈賃英舩提婁斯號發品川達函館陸行至銭函
十戸設置仮庁先ト圓山陵上為神霊鎮座之處今官幣大社札幌神社是也當時札幌之地
眺望廣原民家僅戸熊狼出没於黄茅白葦之間至厳冬期積雪丈余互寒裂石加之運輸未便
衣食匱乏人皆苦凍餒君排萬難日夜桔据分画街街建廓暑七宇十二月第一廨暑先成乃定為
道攻之聴規模廣大観者無不驚異訓乃賦詩日河水遠流山控隅平原千里膏映四湧八達宣開府他
日五洲第一都亦可以概見其抱屓矣未幾四方移民陸続来隼忽為一大都会焉先是
安政四年堀織部正以募命巡按蝦弔君請従之跋扈山河者一年有余偏察地理禍謂
松前函館偏隅耳不可控制全島不如移府於札幌也及為判官境置庁於此世以為卓見焉
今也人口十有七萬街街端正嵩楼大廈鱗次櫛比比皆君沍寒積雪中所計画創基也其功
可謂偉旦大矣君穣團右衛門蹄圀華佐賀藩士少凋償不覇好読経史居恒以圀家休矛為
念不以殷誉得爽諭其節有古豪傑之風故克立萬世大計遺澤所迫實如此誰不仲慕哉
君没後贈従四位顧建府以来既六十餘年父老凋落無復知其勤劬者今茲同志胥謀欲勒
其遺功於貞民伝之先週乃叙其梗概繋以銘銘曰
 済世志壮 不辭艱劬 能閥草野 界作大都 既庶既富 
 昭和四年十一月 正四位勲三等 中村純九郎 撰竝書

 碑の側面には、「陸前稲井 亀井久六 阿部勇之烝 刻」と刻まれ、現在の宮城県石巻市の石工の手によって刻字された。また、この碑の正面に向かって左後方には「島判官建碑寄附芳名」の副碑が同時期に建てられ、碑面に氏名が刻まれた300人のほかに3,281人もの人が寄附に名を連ねたことが記されている。
 説明板があり、それには島判官の写真とともに「島義勇とコタンベツの丘 島義勇は、明治新政府の方針にのっとり開拓使の判官として明治2年(1869年)11月(旧暦)札幌に入り、コタンベツの丘(今の円山公園のあたり)より原野をながめ、本府建設を構想した。彼は計画の半ばで去ったが、その雄大な構想は後に岩村通俊判官らによって引き継がれ、今日の札幌の街づくりの基礎となった。」と記されている。

【上記漢文をAIで現代文に翻訳】
 島義勇判官の功績と北海道開拓の記録
 明治維新の中興に際し、朝廷は蝦夷地(現在の北海道)の開拓を議し、明治2年7月に「開拓使」を設置した。同年8月には蝦夷地を「北海道」と改称し、9月には判官として佐賀藩士・島義勇が任命された。
 島判官は、英国製の蒸気船「ロース号」に乗り品川を出発、函館に到着後、陸路を経て銭函に至った。そこに十戸を設けて仮庁を設置し、まず円山の丘に神霊を鎮座させる場所を定めた。これが現在の官幣大社・札幌神社(北海道神宮)である。
 当時の札幌は広大な原野であり、民家はわずかしかなく、熊や狼が黄茅や白葦の間を出没していた。冬には積雪が一丈(約3メートル)を超え、寒さで石が裂けるほどであり、交通も不便、衣食も乏しく、人々は凍え飢えていた。
 島判官は万難を排し、昼夜を問わず奮闘して街区を設計し、建物を建て、12月には第一庁舎を完成させた。その規模は壮大で、視察者は皆驚嘆したという。彼は詩を詠み、「河水遠流、山控隅、平原千里、膏映四湧八達」と讃え、将来この地が世界第一の都となる可能性を抱いていた。
 その後、四方から移民が続々と集まり、札幌は忽ち一大都会となった。
 島判官は、安政4年に堀織部正の命を受けて蝦夷地を巡察した際、松前や函館は地理的に偏っており、全島を統制するには不適と判断。札幌への府移転を提言し、後に判官として庁を札幌に置いた。この先見の明は、世に卓見と称された。現在、札幌の人口は17万人を超え、街並みは整い、高楼大廈が立ち並ぶ。これらはすべて、島判官が厳寒と積雪の中で計画し、創基したものであり、その功績は偉大である。
 島義勇は佐賀藩士・穣團右衛門の子であり、若くして志高く、覇気に溺れず、経史を好み、常に国家の安寧を願っていた。名誉を求めず、節義に富み、古の豪傑の風格を備えていた。ゆえに万世に残る大計を立て、後世に遺徳を残した。
 彼の没後、従四位が贈られた。建府以来60余年が経ち、彼の勤労を知る者は少なくなった。そこで同志たちはその偉業を後世に伝えるべく、碑文を建立することを謀った。
 昭和4年11月、正四位勲三等・中村純九郎が撰文・書を担当し、以下の銘を刻んだ。
済世志壮
不辞艱劬
能閥草野
界作大都
既庶既富
(意訳:世を救う志は壮大で、困難をいとわず、原野を切り拓いて大都市を築き、民は豊かに栄えた)

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