聖書を読んでイエスを神と信じた人たちは幸い

43ヨハネの福音書

令和7年(2025)4月26日(土) ホープ札幌教会斉藤牧師

ヨハネによる福音書20章・・・イエスの復活の様子。
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20 そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」
22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25 そこで、ほかの弟子たちが、「私たちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」
26 八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28 トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。
29 イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」
30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって命を得るためである。

【解説】
 イエスの弟子たちは、イエスが十字架に掛けられて亡くなったのを見て、夢破れた。次は自分たちが刑に掛けられると思っていたところに、イエスが復活した。遺体が安置されている所には鍵がかかっているのに。
 イエスは「平安があるようにと言った」。それはシャロームといって、平和を意味し挨拶でも用いられる。イエス様は、人類の罪を背負って十字架に掛けられ役割を完了したところ。父が私(イエス)を遣わしたように、私もあなたを遣わすということは、あなた方も人生に役割があるということ。皆さんはイエス様にずっと愛されていること。
 人生大変なことがあるが、人それぞれ役割がある。100歳過ぎ迄医師だった日野原重明先生、首から下が不随の絵本画家の星野富弘、足でコーヒーを飲むレーナ・マリア、父に強姦されたジョイス・マイヤー、皿洗いの敬虔なクリスチャン:ブラザー・ローレンスなど。
 人間は弱いので、聖霊の力を借りる。トマスはイエスの復活を信じなく、腕と腹の傷を見るまで信じないと言った。イエス様は人が何を言ったが全部知っている。
 イエス様は、そのような奇蹟を見ないでも信じる人は幸いですと仰っている。それは聖書を読んで信じること。本日のテーマ。同志社大学の創始者新島襄は、創世記1:1「神は天と地を造った」を読んで、キリスト教を信じた。
 人生は、つらいこと、痛いこともあるが、その中に発見があり、救いがある。そして最後に永遠の命が与えられる。私たちはそのような人になる証人になるべき。神様はお金持ちや能力のある人を扱わない。イエスは大工であり、弟子たちは漁師などである。私たちの国籍は天国で、イエス様から遣わされたと考えて生きていこう。

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